「ただいま」
「あら、おかえり。疲れた~って表情してるわよ。今夜は早く寝なさいね」
家に帰り、平静を装って普段通り過ごした。少なくとも家族には俺たちの関係や、それがとんでもないことに至ろうとしていることは気付かれなかった。母さんに言われた通り、その日は早めに寝ることにした。寝る前に優に何かメールを送ろうとした。しかし、こんな状況で誤解のない、かつ彼女を安心させる文面が思いつかなかった。携帯電話を枕元に放り出して、眠りについた。
はっと気がついたとき、横で何かうめく声が聞こえた。
「誰だよこんな時間に……」
重たいまぶたをゆっくりと開け、目をこする。視界がようやく意図したところにピントを合わせられるようになったとき、俺はよっこらせと起き上がり、その声の正体を見る。
「……夢香?」
そこで苦しんでいたのは、他でもない夢香だった。彼女は目をつむり、苦しそうな表情で悶えていた。上に着ているセーターがくしゃくしゃになり、少しまくれ上がって、お腹が見えていた。
「おい、夢香! 大丈夫か?」
「……あぁ、誠さん。来てたんですね……すみません、私、また寝てしまっていました……お、起きないと……うっ」
夢香は体を起こそうと腕を突っ張ろうとした。しかし、力がうまく入らないようで、起き上がることができずにいた。俺はとっさに彼女の額に手を当てる。やっぱり。夢香は熱を出していた。
「ちょっろ……らりするんれすか……へんらころ……しら……」
ほとんどろれつが回っていない状態で俺に対する最後の抵抗をした後、彼女は何もしゃべらなくなってしまった。
「ちょっ、どうするんだよ……俺、この世界の人じゃないんだからさ……とりあえず、何か熱冷ましになるものないかな」
俺はその空間をあちこち歩き回り、少しでも夢香の看病になるものを探した。その空間の端のほうになぜか冷蔵庫があり、その中にペットボトル入りの水が入っていたが、それ以外には使えそうなものはなかった。
「とりあえずこいつをなんとかしてみるか……」
俺はその水を開け、たまたま近くにあった布切れにしみ込ませて夢香の額に乗せた。ほんの気休め程度にしかならないが、何もしないよりかはましだ。それに、この世界とはいえ、彼女の異常事態は夢から覚めて、明日もう一度ここに来た時に何事もなかったようになっているとは思えなかった。俺の心が、彼女を放っておけなかった。
しばらく経って、布切れを取って改めて水をしみ込ませる。再び夢香の額に乗せる。それを五回ぐらい繰り返しただろうか、やがて彼女が表情をゆがめ、目を覚ました。先ほどよりかは幾分顔色も良くなっていた。
「……あぁ、誠さん。すみません、私、また寝てしまっていました……今日は世界を移動させる人がいないからって、ちょっと気を抜いてしまってました。って、これ……」
夢香が、額から落ちてきた布切れに気付く。俺は、すべてを話すことにした。
「お前、俺がここに来た時めちゃくちゃ苦しそうにしてたんだぞ。すごい熱出してて、今よりもっと顔色悪くて、ろくに立ち上がることもできないで、そのまま寝込んでしまったんだよ。それから俺が有り合わせのものでお前を看病して……」
「そ、そうだったんですか……すみません、ご迷惑をおかけしました」
「ったく、俺がいなかったら、お前……」
「すみません……」
なぜか、俺も夢香も泣き出してしまった。男なのに泣くなんて、なんと情けないことか。つくづく恥ずかしいと感じる。彼女の涙には、どんな感情が込められているのだろう。
と、ここで夢香が涙を振り切って俺に話しかける。
「あの、せっかく看病してもらって本当にありがたいんですけど、もうすぐ朝が来ます。誠さんも私も、そろそろ元の世界に戻らないといけません。このご恩はいつか必ずお返ししますから」
やたら慌てた様子で言うものだから、俺も焦ってベッドに飛び乗った。いつかと同じように、二人並んでベッドに横になる。
「大丈夫か? 頭痛いとか、熱っぽいとか、鼻水が出るとか、ないか?」
「はい、少し頭がくらくらしますが、動けないほどではありません。誠さんが看病してくれたおかげで、楽になりました。本当にありがとうございます」
「そっか、今晩も様子見にここに来たいんだけど、いいか?」
「はい。私も、誠さんにお礼をしないといけませんし」
それだけ会話して、俺たちはベッドに仰向けになり、元の世界に戻る準備をした。しばらくして、彼女が俺の手をぎゅっと握ってきた。おとといまでの俺ならきっとドキドキしてまた眠れなくなりそうになっていただろうが、それを超えるドキドキを優によってもたらされたので、特に何も感じなかった。俺は、その手を握り返すほどの余力を見せながら眠りにつき、いつもの、しかし、いつもとはちょっと違う朝を迎えた。夢香に優との件について話すのを忘れたことに気付いたのは、目が覚めてからだった。
「いたっ、あたた……頭痛か」
昨日の一件で相当ストレスがたまったのだろうか。俺は不覚にも強い頭痛を患い、少し動くだけでも頭が激しく締めつけられるような痛みを感じた。母さんに事情を説明し、今日は学校を休むことにした。これだとショックで学校を休んでいるだけのようにも思われかねないが、今日は本当に頭が痛かったし、昨夜は夢香があのようになっていたから世界も移動していない。学校に行けばどうなるかは目に見えてわかっている。こんなときに都合良く頭痛が起きてくれて、正直助かったと感じている。もしかして、これは夢香が仕組んだことなのだろうか? と一瞬考えもした。この補習は仮に休んだとしても欠席日数にはカウントされないらしく、それが俺の決断を後押しした。
そういえば、優はどうしているのだろう。彼女もまた頭痛を引き起こし、あるいは仮病を使って学校を休んでいるのだろうか? それとも、壮絶ないじめが待っているのを承知の上で、学校へ向かったのだろうか。そんなことを考えていると、携帯電話が鳴り始めた。見ると、優からのメールだった。慌てて文面を見る。
「おはよっ。もしかして昨日の事件で休んだりしてる? 実は私、朝から頭が痛くて、今日は学校休むことにした。明日はたぶんいつも通りに通えると思うけど、もし私の噂が広まっていたら、親に本当のことを話して、転校しようと思う」
優も頭痛か……そういえば彼女、中学生の時にストレスで倒れたことがあるって言ってたな。今回は大丈夫だろうか。彼女のことが気にかかる。とりあえずメールでは、
「おはよう。実は俺も今朝は頭痛で……学校休むことにした。偶然だな」
とだけ返しておいた。携帯電話を枕元に置き、まずは自分の病気を治すことに専念した。幸いにも頭痛はその日の夜には収まり、夕食は問題なく食べることができた。出来る範囲で宿題や勉強をし、少し早めに寝ることにした。
目を覚まし、そこに広がる真っ白な空間にも、そろそろ違和感を感じなくなり始めていた。
「あ、誠さん。お待ちしてました」
そして、夢香のことを下心全開の目で見つめることもほとんどなくなってきていた。すべては、少しずつ変わってきていた。優と出会った、あの頃から。
「そうだ! 誠さんに昨日のお礼をちゃんとしないといけないんでした」
「その前に一つだけいいか? なんならこれがお礼の代わりでもいい。世界を移動させてほしいんだ」
「……あの女の子との件でそうおっしゃるのでしたら、ご安心ください。実はもう、あなたを別の世界に移動させました」
「え!? そうなの? 俺、全然気付かなかった」
「はい。昼頃にちょちょいと移動させました。誠さんはずっと眠っていたので気付いていないと思います。明日以降は、あの事件についてクラスの人は何も知りません。彼女さんはきっとすごくびっくりすると思いますが、そこはうまくフォローしてあげてください」
「そうだったんだ。ありがとな」
「礼には及びません。それより私が誠さんにお礼をしないと」
「礼って? そんな大胆にお礼を言われるほどのことはしてないんだけどなぁ」
「それでも私を、私のことを思って、看病してくれたんですよね? 前にも言ったと思いますが、私は今まで、利用される側でした。今でも私を利用する人がほとんどです。そんな中で誠さん……あなただけですよ。私「に、利用された」のは」
「利用されただなんて。前にも言ったろ、俺は困っている子がいたら助けるのが道理だって」
「でも! 私の立場上、あなたが私に利用されるのはだめなんです! 私は……私が利用されないといけない立場なんです」
「さっきから利用する利用されるって、何の話だよ。そんなの誰が決めたんだよ。誰かは知らねえけど、夢香はこの場所で働く人である前に人間だろ? 人間ならもっと自分のやりたいように行動してもいいんじゃねえのかよ」
「でも、」
「そこから先は言わせない。夢香はもっと自分の気持ちに正直になれ。そうやって自分の気持ちを押し殺して、「これが私の仕事だから」って理由で自分をどんどん閉ざしていく奴見るの、嫌なんだよ。前にそのことで苦しんでる奴を見たことがあるからさ。理由は知らないけど、少なくとも俺の前では、自分のありのままに行動しろ。それで……本当の「夢香」、俺に見せてくれよ」
「……」
彼女は顔を赤らめてうつむいてしまった。全部口にしてしまってから、今の自分の言葉が感情だけのもので、それを何のためらいもなく女の子にぶつけてしまったという罪悪感に見舞われた。俺は反省しなければならない。謝らなければならない。「ごめん」と言おうとした。
「私、」
それをさえぎったのは夢香だった。
「本当は建前だけのお礼をしたかったのかもしれません。誠さんに「ありがとう」って伝えて、少しばかり私とおしゃべりして、楽しい時間を過ごして、誠さんが喜ぶかなって、私の髪飾りをあげて、元の世界に戻る時に一緒に寝て、その時に手をつないで。そうするつもりでした。でも今、自分の心とちゃんと向き合ったら、それは本当に私がやりたかったことじゃなくて、誠さんと私のこの関係がこれからも長く続いて、これからもこうやっておしゃべりを楽しみたくて、この関係を壊したくなくて、安全な手段でお礼をしたかったのかもしれません」
俺はベッドに腰掛け、目の前の簡素な椅子に座って話す彼女の言葉をじっくりと聞き入れていた。
「私、たとえ今の関係が壊れることになったとしても、たとえそれが誠さんを傷つけることになったとしても……自分の気持ちに正直になると、こうなるんです」
彼女はすっと立ち上がり、俺のほうへ向かってきた。その足は止まることなく、そのまま膝立ちでベッドに上がり、俺のすぐ前に向かった。なおもその動きは止まらず、俺はとうとう後ろ向きに倒れることを余儀なくされた。なすがままに押し倒されると、夢香はその上に覆い被さるようにまたがり、俺を注視した。その目がまるで標的を見定めたかのような目つきに変わったかと思ったその瞬間、黒い影が急速にこちらに近づいた。俺は反射的に目をつむる。唇に何か感じられた。ところがその黒い影の正体が夢香の顔で、俺が夢香にキスされたという事実を知った瞬間、全身をえも言われぬちくちくしたものが走った。
夢香との唇を通じたやりとりは想像以上に激しく、夢香は時折「はむ……んっ……んんっ」などと、その性格からは想像もつかないような甘い声を出しながら、俺の唇を奪っていった。俺は、あまりに突然の出来事に、抵抗することも、「優と抱き合ったから」と突き放すこともできず、なされるがままにその感触に全神経を注がざるを得なくなっていた。
やがて、夢香の顔が離れてゆく。呼吸は浅く、目はうっとりしていた。
「夢香……」
俺は夢香のあまりに唐突で衝撃的な行為に、まず驚きを隠すことができなかった。彼女の名前を呼ぶことが、この時の俺にできた唯一のことだった。
「どうですか。これが私の……本当の素直な気持ちですよ。誠さんのことが好きとか、そういう一般的なものじゃなくて、何かもっとそれ以上の気持ちで、おかしくなっちゃいそうだったんですよ、私。いきなりキスされて驚いたと思います。しかも、誠さんには彼女さんもいらっしゃるというのに、私、すごくいけない子ですよね。でも、誠さんにあのように言われて、もう我慢できなかったんです。誠さんがそういうなら、私の素直な気持ち、見せつけてやろうって。建前を貫き通してここにいらっしゃる方々に作り笑いを振りまいている私が本気出したらどうなるか見せつけて、誠さんを困らせてやろうって」
夢香は、再び顔をゆっくりとこちらに近づけてくる。俺の体は、なぜかそれを遠ざけたり、突き放したりできなかった。
「私……まだ足りないです。もっとして、いいですか?」
返事を聞く間もなく、夢香は再び俺の唇を自分だけのものにし、強いやりとりを求めた。一瞬唇が離れては「誠さん……」「もっと……いいですか?」などと言い、再びくっつける。彼女は、こんなときですら敬語を忘れなかった。それが元からの性格によるものか、誰かに強く叩き込まれたものかは、我を忘れかけていたこの時の俺にはわからなかった。
「なんであの子なんですか……」「私じゃ、だめなんですか……」
ふとささやいた彼女のその言葉は、悲痛の叫びにも聞こえて、心が痛くなった。
それが、たった数分間の出来事だったのか、それとも何日にも及ぶ出来事だったのかはわからない。しかし、俺にとっては相当長い時間であったように感じた。やがて、感情が落ち着いたのか、満足した表情の夢香は、そのまま力尽きたように俺に覆い被さってぐったりしていた。この空間はそれほど暑くないのに、夢香は汗をかいていた。
「夢香……」
俺は、夢香の行為が信じられず、言葉を忘れかけていた。
「誠さん、私、とても満足です。今まで押し殺してきた私の気持ち、全部誠さんに伝えることができました。すごく、気持ちいいです。ありがとうございます……」
「これが……夢香からのお礼、ってことでいいのか?」
「……はいっ」
「竜野夢香! 幸せな時間はそこまでよ!」
突然、場の空気をピリッと引き締める鋭い声が聞こえた。それは俺の声でも、夢香の声でもなかった。俺は、どこか意識が遠のく感覚がして、声がした方向を向く力も残されていなかった。夢香は俺から離れ、ベッドから降りた。先ほどの甘えるようなとろんとした表情から一転、いつものキリッとした表情に戻った。俺は、この何か良くわからない状況に入らず、そのままベッドの上で眠りについて元の世界に戻るつもりだった。しかし、それは次の言葉で遮られた。
「あれ? もしかして……誠くん?」
その声には明らかに聞き覚えがあり、それも俺の身近な存在だった。さすがの俺も名前を呼ばれたのを無視して眠りにつくことはできなかった。残りわずかな力を振り絞って声のした方向を向いた。
「……優?」
また、ガラスの割れる音がした。
「あら、おかえり。疲れた~って表情してるわよ。今夜は早く寝なさいね」
家に帰り、平静を装って普段通り過ごした。少なくとも家族には俺たちの関係や、それがとんでもないことに至ろうとしていることは気付かれなかった。母さんに言われた通り、その日は早めに寝ることにした。寝る前に優に何かメールを送ろうとした。しかし、こんな状況で誤解のない、かつ彼女を安心させる文面が思いつかなかった。携帯電話を枕元に放り出して、眠りについた。
はっと気がついたとき、横で何かうめく声が聞こえた。
「誰だよこんな時間に……」
重たいまぶたをゆっくりと開け、目をこする。視界がようやく意図したところにピントを合わせられるようになったとき、俺はよっこらせと起き上がり、その声の正体を見る。
「……夢香?」
そこで苦しんでいたのは、他でもない夢香だった。彼女は目をつむり、苦しそうな表情で悶えていた。上に着ているセーターがくしゃくしゃになり、少しまくれ上がって、お腹が見えていた。
「おい、夢香! 大丈夫か?」
「……あぁ、誠さん。来てたんですね……すみません、私、また寝てしまっていました……お、起きないと……うっ」
夢香は体を起こそうと腕を突っ張ろうとした。しかし、力がうまく入らないようで、起き上がることができずにいた。俺はとっさに彼女の額に手を当てる。やっぱり。夢香は熱を出していた。
「ちょっろ……らりするんれすか……へんらころ……しら……」
ほとんどろれつが回っていない状態で俺に対する最後の抵抗をした後、彼女は何もしゃべらなくなってしまった。
「ちょっ、どうするんだよ……俺、この世界の人じゃないんだからさ……とりあえず、何か熱冷ましになるものないかな」
俺はその空間をあちこち歩き回り、少しでも夢香の看病になるものを探した。その空間の端のほうになぜか冷蔵庫があり、その中にペットボトル入りの水が入っていたが、それ以外には使えそうなものはなかった。
「とりあえずこいつをなんとかしてみるか……」
俺はその水を開け、たまたま近くにあった布切れにしみ込ませて夢香の額に乗せた。ほんの気休め程度にしかならないが、何もしないよりかはましだ。それに、この世界とはいえ、彼女の異常事態は夢から覚めて、明日もう一度ここに来た時に何事もなかったようになっているとは思えなかった。俺の心が、彼女を放っておけなかった。
しばらく経って、布切れを取って改めて水をしみ込ませる。再び夢香の額に乗せる。それを五回ぐらい繰り返しただろうか、やがて彼女が表情をゆがめ、目を覚ました。先ほどよりかは幾分顔色も良くなっていた。
「……あぁ、誠さん。すみません、私、また寝てしまっていました……今日は世界を移動させる人がいないからって、ちょっと気を抜いてしまってました。って、これ……」
夢香が、額から落ちてきた布切れに気付く。俺は、すべてを話すことにした。
「お前、俺がここに来た時めちゃくちゃ苦しそうにしてたんだぞ。すごい熱出してて、今よりもっと顔色悪くて、ろくに立ち上がることもできないで、そのまま寝込んでしまったんだよ。それから俺が有り合わせのものでお前を看病して……」
「そ、そうだったんですか……すみません、ご迷惑をおかけしました」
「ったく、俺がいなかったら、お前……」
「すみません……」
なぜか、俺も夢香も泣き出してしまった。男なのに泣くなんて、なんと情けないことか。つくづく恥ずかしいと感じる。彼女の涙には、どんな感情が込められているのだろう。
と、ここで夢香が涙を振り切って俺に話しかける。
「あの、せっかく看病してもらって本当にありがたいんですけど、もうすぐ朝が来ます。誠さんも私も、そろそろ元の世界に戻らないといけません。このご恩はいつか必ずお返ししますから」
やたら慌てた様子で言うものだから、俺も焦ってベッドに飛び乗った。いつかと同じように、二人並んでベッドに横になる。
「大丈夫か? 頭痛いとか、熱っぽいとか、鼻水が出るとか、ないか?」
「はい、少し頭がくらくらしますが、動けないほどではありません。誠さんが看病してくれたおかげで、楽になりました。本当にありがとうございます」
「そっか、今晩も様子見にここに来たいんだけど、いいか?」
「はい。私も、誠さんにお礼をしないといけませんし」
それだけ会話して、俺たちはベッドに仰向けになり、元の世界に戻る準備をした。しばらくして、彼女が俺の手をぎゅっと握ってきた。おとといまでの俺ならきっとドキドキしてまた眠れなくなりそうになっていただろうが、それを超えるドキドキを優によってもたらされたので、特に何も感じなかった。俺は、その手を握り返すほどの余力を見せながら眠りにつき、いつもの、しかし、いつもとはちょっと違う朝を迎えた。夢香に優との件について話すのを忘れたことに気付いたのは、目が覚めてからだった。
「いたっ、あたた……頭痛か」
昨日の一件で相当ストレスがたまったのだろうか。俺は不覚にも強い頭痛を患い、少し動くだけでも頭が激しく締めつけられるような痛みを感じた。母さんに事情を説明し、今日は学校を休むことにした。これだとショックで学校を休んでいるだけのようにも思われかねないが、今日は本当に頭が痛かったし、昨夜は夢香があのようになっていたから世界も移動していない。学校に行けばどうなるかは目に見えてわかっている。こんなときに都合良く頭痛が起きてくれて、正直助かったと感じている。もしかして、これは夢香が仕組んだことなのだろうか? と一瞬考えもした。この補習は仮に休んだとしても欠席日数にはカウントされないらしく、それが俺の決断を後押しした。
そういえば、優はどうしているのだろう。彼女もまた頭痛を引き起こし、あるいは仮病を使って学校を休んでいるのだろうか? それとも、壮絶ないじめが待っているのを承知の上で、学校へ向かったのだろうか。そんなことを考えていると、携帯電話が鳴り始めた。見ると、優からのメールだった。慌てて文面を見る。
「おはよっ。もしかして昨日の事件で休んだりしてる? 実は私、朝から頭が痛くて、今日は学校休むことにした。明日はたぶんいつも通りに通えると思うけど、もし私の噂が広まっていたら、親に本当のことを話して、転校しようと思う」
優も頭痛か……そういえば彼女、中学生の時にストレスで倒れたことがあるって言ってたな。今回は大丈夫だろうか。彼女のことが気にかかる。とりあえずメールでは、
「おはよう。実は俺も今朝は頭痛で……学校休むことにした。偶然だな」
とだけ返しておいた。携帯電話を枕元に置き、まずは自分の病気を治すことに専念した。幸いにも頭痛はその日の夜には収まり、夕食は問題なく食べることができた。出来る範囲で宿題や勉強をし、少し早めに寝ることにした。
目を覚まし、そこに広がる真っ白な空間にも、そろそろ違和感を感じなくなり始めていた。
「あ、誠さん。お待ちしてました」
そして、夢香のことを下心全開の目で見つめることもほとんどなくなってきていた。すべては、少しずつ変わってきていた。優と出会った、あの頃から。
「そうだ! 誠さんに昨日のお礼をちゃんとしないといけないんでした」
「その前に一つだけいいか? なんならこれがお礼の代わりでもいい。世界を移動させてほしいんだ」
「……あの女の子との件でそうおっしゃるのでしたら、ご安心ください。実はもう、あなたを別の世界に移動させました」
「え!? そうなの? 俺、全然気付かなかった」
「はい。昼頃にちょちょいと移動させました。誠さんはずっと眠っていたので気付いていないと思います。明日以降は、あの事件についてクラスの人は何も知りません。彼女さんはきっとすごくびっくりすると思いますが、そこはうまくフォローしてあげてください」
「そうだったんだ。ありがとな」
「礼には及びません。それより私が誠さんにお礼をしないと」
「礼って? そんな大胆にお礼を言われるほどのことはしてないんだけどなぁ」
「それでも私を、私のことを思って、看病してくれたんですよね? 前にも言ったと思いますが、私は今まで、利用される側でした。今でも私を利用する人がほとんどです。そんな中で誠さん……あなただけですよ。私「に、利用された」のは」
「利用されただなんて。前にも言ったろ、俺は困っている子がいたら助けるのが道理だって」
「でも! 私の立場上、あなたが私に利用されるのはだめなんです! 私は……私が利用されないといけない立場なんです」
「さっきから利用する利用されるって、何の話だよ。そんなの誰が決めたんだよ。誰かは知らねえけど、夢香はこの場所で働く人である前に人間だろ? 人間ならもっと自分のやりたいように行動してもいいんじゃねえのかよ」
「でも、」
「そこから先は言わせない。夢香はもっと自分の気持ちに正直になれ。そうやって自分の気持ちを押し殺して、「これが私の仕事だから」って理由で自分をどんどん閉ざしていく奴見るの、嫌なんだよ。前にそのことで苦しんでる奴を見たことがあるからさ。理由は知らないけど、少なくとも俺の前では、自分のありのままに行動しろ。それで……本当の「夢香」、俺に見せてくれよ」
「……」
彼女は顔を赤らめてうつむいてしまった。全部口にしてしまってから、今の自分の言葉が感情だけのもので、それを何のためらいもなく女の子にぶつけてしまったという罪悪感に見舞われた。俺は反省しなければならない。謝らなければならない。「ごめん」と言おうとした。
「私、」
それをさえぎったのは夢香だった。
「本当は建前だけのお礼をしたかったのかもしれません。誠さんに「ありがとう」って伝えて、少しばかり私とおしゃべりして、楽しい時間を過ごして、誠さんが喜ぶかなって、私の髪飾りをあげて、元の世界に戻る時に一緒に寝て、その時に手をつないで。そうするつもりでした。でも今、自分の心とちゃんと向き合ったら、それは本当に私がやりたかったことじゃなくて、誠さんと私のこの関係がこれからも長く続いて、これからもこうやっておしゃべりを楽しみたくて、この関係を壊したくなくて、安全な手段でお礼をしたかったのかもしれません」
俺はベッドに腰掛け、目の前の簡素な椅子に座って話す彼女の言葉をじっくりと聞き入れていた。
「私、たとえ今の関係が壊れることになったとしても、たとえそれが誠さんを傷つけることになったとしても……自分の気持ちに正直になると、こうなるんです」
彼女はすっと立ち上がり、俺のほうへ向かってきた。その足は止まることなく、そのまま膝立ちでベッドに上がり、俺のすぐ前に向かった。なおもその動きは止まらず、俺はとうとう後ろ向きに倒れることを余儀なくされた。なすがままに押し倒されると、夢香はその上に覆い被さるようにまたがり、俺を注視した。その目がまるで標的を見定めたかのような目つきに変わったかと思ったその瞬間、黒い影が急速にこちらに近づいた。俺は反射的に目をつむる。唇に何か感じられた。ところがその黒い影の正体が夢香の顔で、俺が夢香にキスされたという事実を知った瞬間、全身をえも言われぬちくちくしたものが走った。
夢香との唇を通じたやりとりは想像以上に激しく、夢香は時折「はむ……んっ……んんっ」などと、その性格からは想像もつかないような甘い声を出しながら、俺の唇を奪っていった。俺は、あまりに突然の出来事に、抵抗することも、「優と抱き合ったから」と突き放すこともできず、なされるがままにその感触に全神経を注がざるを得なくなっていた。
やがて、夢香の顔が離れてゆく。呼吸は浅く、目はうっとりしていた。
「夢香……」
俺は夢香のあまりに唐突で衝撃的な行為に、まず驚きを隠すことができなかった。彼女の名前を呼ぶことが、この時の俺にできた唯一のことだった。
「どうですか。これが私の……本当の素直な気持ちですよ。誠さんのことが好きとか、そういう一般的なものじゃなくて、何かもっとそれ以上の気持ちで、おかしくなっちゃいそうだったんですよ、私。いきなりキスされて驚いたと思います。しかも、誠さんには彼女さんもいらっしゃるというのに、私、すごくいけない子ですよね。でも、誠さんにあのように言われて、もう我慢できなかったんです。誠さんがそういうなら、私の素直な気持ち、見せつけてやろうって。建前を貫き通してここにいらっしゃる方々に作り笑いを振りまいている私が本気出したらどうなるか見せつけて、誠さんを困らせてやろうって」
夢香は、再び顔をゆっくりとこちらに近づけてくる。俺の体は、なぜかそれを遠ざけたり、突き放したりできなかった。
「私……まだ足りないです。もっとして、いいですか?」
返事を聞く間もなく、夢香は再び俺の唇を自分だけのものにし、強いやりとりを求めた。一瞬唇が離れては「誠さん……」「もっと……いいですか?」などと言い、再びくっつける。彼女は、こんなときですら敬語を忘れなかった。それが元からの性格によるものか、誰かに強く叩き込まれたものかは、我を忘れかけていたこの時の俺にはわからなかった。
「なんであの子なんですか……」「私じゃ、だめなんですか……」
ふとささやいた彼女のその言葉は、悲痛の叫びにも聞こえて、心が痛くなった。
それが、たった数分間の出来事だったのか、それとも何日にも及ぶ出来事だったのかはわからない。しかし、俺にとっては相当長い時間であったように感じた。やがて、感情が落ち着いたのか、満足した表情の夢香は、そのまま力尽きたように俺に覆い被さってぐったりしていた。この空間はそれほど暑くないのに、夢香は汗をかいていた。
「夢香……」
俺は、夢香の行為が信じられず、言葉を忘れかけていた。
「誠さん、私、とても満足です。今まで押し殺してきた私の気持ち、全部誠さんに伝えることができました。すごく、気持ちいいです。ありがとうございます……」
「これが……夢香からのお礼、ってことでいいのか?」
「……はいっ」
「竜野夢香! 幸せな時間はそこまでよ!」
突然、場の空気をピリッと引き締める鋭い声が聞こえた。それは俺の声でも、夢香の声でもなかった。俺は、どこか意識が遠のく感覚がして、声がした方向を向く力も残されていなかった。夢香は俺から離れ、ベッドから降りた。先ほどの甘えるようなとろんとした表情から一転、いつものキリッとした表情に戻った。俺は、この何か良くわからない状況に入らず、そのままベッドの上で眠りについて元の世界に戻るつもりだった。しかし、それは次の言葉で遮られた。
「あれ? もしかして……誠くん?」
その声には明らかに聞き覚えがあり、それも俺の身近な存在だった。さすがの俺も名前を呼ばれたのを無視して眠りにつくことはできなかった。残りわずかな力を振り絞って声のした方向を向いた。
「……優?」
また、ガラスの割れる音がした。