彼女はソファの上に立ち、人差し指を立てて説明を始めた。
「信じられないかもしれませんが、実は私たちが住むことのできる世界はいくつかあるのです!」
「……はぁ?」
「えっと、わかりやすく言い直すと、こう、車で道を走っていて、隣の車線に車線変更するようなものです」
「うーん、よくわからないなぁ」
「男の子が浮気するようなものです」
「わ、わかりやすい!」
「えへへ~」
少女は肩をすくめながらはにかんだ。どうしてこいつはこうも動作の一つ一つが可愛さを極めているんだ! 俺はアニメをよく見ていて、それに出てくるキャラクターに萌えることはよくあるが、今感じているのはそんな生易しい萌えではない。彼女の萌えは、それを極限まで追求し、俺たち男のハートをつかむどころか、破裂せんばかりに強く締め上げてくる、「萌えの極み」であった。あぁ、萌え死ぬってこういうことなんだな、と本気で感じた。ついでに、先ほどのノリツッコミにも若干の違和感を覚え始めていた。
「あぁ! また変な目をしました!約束はちゃんと守ってくださいよ」
「あー悪い悪い」
こうやってさっきから俺は彼女の「萌え」に対して何度も謝罪をしている。悪いのは明らかに俺を萌え萌えさせてくる君じゃないか。なのになぜ俺のほうが謝らないといけないんだ。などと考えつつも、おそらく今後一切萌えなくなるということはあり得ないのだろうな、とも思っていた。この謝罪はせいぜい彼女への気休め程度にしかならないだろう。そのうち向こうも手を打ってくるかもしれないが。
「説明を続けますね。人間はそう簡単に世界を移動することはできません。そんなことができてしまったら、そもそも複数の世界の概念は存在しませんからね。世界を移動できる場所は決まっていて、そこで所定の手続きをすることで元の世界の記憶を保ったまま別の世界に移動することができるのです。ただ、移動した人は元の世界では「いなかった」ことになり、友人や同僚はおろか、家族からも記憶が消えてしまい、初めから存在しなかったことになってしまうのです」
「で、まさかとは思うけどここって……」
「はい! ここがまさに世界を移動できる場所。私たちはそれを高速道路で他の道路に接続するインターチェンジに例えて、「ワールド・インターチェンジ」と呼んでいます。そして私たちはそのインターチェンジを動かす、いわば管理人のようなものです」
「へぇ~。俺と同学年ぐらいの女の子がそんな役目をしているなんて、君って結構すごい奴なんだな」
「えへへ~」
少女は再び肩をすくめながらはにかんだ。どうしてこいつは、以下略。
「というわけで、なんかごちゃごちゃした説明は面倒くさいので省略するとして、あなたは毎日寝る前に「はぁ~、今日も無駄な一日だったなぁ……」と言っていますよね?」
「やけにリアルにものまねするな……それはそうと、なんでわかるんだ?」
「実は少し前からあなたのことをチェックしていたんです。このワールド・インターチェンジは人間が自ら進んで来られる場所じゃないので、私たちが「この人」っていうのを決めて、引き連れて来るんです。で、「この人」を決めるために私たちは常に現実世界を巡回しているのですが、その中であなたがヒットしたんです。ていうか、外まで聞こえるほどの大きな声で毎日「無駄な一日だった」なんてつぶやくものですから、嫌でも気になりますよ」
「そんなに大きな声だったのか俺の毎晩の愚痴は……」
「本当に。家族に聞こえなかっただけまだいいほうですよ」
「で、俺が「この人」っていうのに決まったんだよな? 俺をどうしてくれるんだ?」
「あなたに世界を移動する権利を与えます。あくまで「権利」なので、嫌なら断ってもいいんですよ。でも、相当悩んでいるようなので、移動して後悔することはないと思いますよ」
「俺としてもできることなら、こんな世界終わりにしたいよ。でも、移動先の世界でも同じ目に遭ったりしないか?」
「ご安心ください。世界は複数あると言いましたが、それらの世界の構造は実は少しずつ違います。だから、全く同じ境遇をたどったとしても結果が同じとは限りません。それと、それらの世界を管理しているのが、私たちです。ちょっとした権限で、世界の構造を、その人に有利なように変更することもできます。もちろん限度はありますし、変更の干渉によって思わぬ結果を招くこともあります」
「そうなのか。でもなぁ、家族だけは俺のことをわかってくれていて、俺も家族のことだけは信頼できる。それを捨てるのは嫌だな」
「その点もご安心ください。今言った「世界の構造を変更する」ことによって、あなたとその家族との間の信頼関係はそのまま引き継ぎます。ですから移動先でもこれまで通りの家庭生活を送ることができます」
「そうか。いいかもしれないな」
彼女の顔が真剣そのものになっていることに気付いた。可愛くありながら、プロの品格を感じ取ることができる。
「世界を移動できるチャンスは今、この夜が終わるまでです。もしあなたが断ったときは、私は次の人を探します。でも、世界を移動したがっている人はたくさんいます。ただ、この世界をあまりにも大きく改変、つまり多くの人を一度にたくさん移動させてしまうとその変化に世界の構造がついていけなくなって崩壊してしまいます。以前一晩に二人移動させたところ、危うく世界が崩壊しそうになりました。ですから、一晩で移動できるのは一人だけです。それに私たちは平等を大前提にしています。緊急を要する場合以外は短期間に同じ人を何度もここに連れて来て、世界を移動させることはできません。もし断ったならば、次にお会いできるのは早くても十年後ぐらいになると思います。どうしますか?」
彼女は、そのかわいらしい顔からは想像もできないほどの真剣な表情で詰め寄った。萌えとか胸キュンとか、今はそれどころじゃない。俺は、決断を迫られていた。それも、かつてないほどに大きな決断である。これは、俺の人生を大きく変えるものである。しかし、この時の俺に、もう迷いはなかった。答えは、最初から揺らぐことなどなかった。
「俺は、別の世界に行きたい。行って、ありのままの生活を送りたい」
「わかりました。それじゃあ、ここに座ってください」
少女は俺を、目の前のソファに座るよう誘導した。言われた通りに座る。それはとてもふかふかで、体全体を柔らかく包み込むようだった。
「そういえば名前を申し上げるのを忘れていました。私は竜野夢香と言います。この時間はここでこういう仕事をしていますが、昼間は世界中を飛び回っています。常に同じ世界にいるわけではありません。一日ごとに違う世界に移動しますし、違う国にも行きます。そうやって、この場所に来るべき人を探しているのです。もしよろしければあなたのお名前をお伺いしてもいいですか?」
「俺は姫路誠。よろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いします。といっても、移動先の世界で満足いただけたら、私と会うことはもうありませんけどね」
「そうなのか。それは残念だ。こうやって同年代の女の子と話すの、すんげえ久しぶりだったからさ」
「そうなんですか。実は私も、こういう仕事をしているのでなかなか同じぐらいの年代の男の子と話す機会がないんです。それに私、現実世界では、その……えっと……」
「嫌なら言わなくていい。君の悲しむ顔は見たくない」
「優しいんですね。誠さん」
ま、誠さんだってぇ!?いやぁ、うれしいなぁ!同年代の女の子に下の名前で呼んでもらえるなんて!しかも相手はとびっきり可愛い。こんな幸せ、味わっちゃっていいのか!?
「もう! またえっちな目をしました! ……あっ、ごめんなさい。つい誠さんのことをえっちだなんて……」
「いいよ。どうせ俺は下心全開の「えっち」な男だからさ」
「そんなドヤ顔で言われても困りますけど。おっと、しゃべりすぎました。そろそろ世界を移動しましょう」
「あぁ、お願いします」
俺は改めてソファに座り直し、それから彼女の指示通り、目をつむった。その後、彼女は何もしゃべらなくなった。服のこすれるような音からして、おそらく何か世界を移動するための力を集めているのだろう。十分ぐらい経った頃だろうか、彼女が再び話し始めた。
「準備ができました。今からあなたを別の世界に移動します」
「うん」
「その前に一つだけいいですか?」
「何だ?」
「こんなに楽しい時間を過ごせたの、誠さんが初めてです。ありがとうございました」
「こちらこそ、」
言おうと思ったときにはすでに世界はぐるぐる回り始めていた。ここに来たときと同じように、世界がまるで液体をかき回しているかのように無作為な模様を描き、次から次へと色や形を変化させていった。自分の目が回ってしまわないよう、何らかの形で視界を閉ざした。同時に、この混沌とした渦に飲み込まれないよう、足下に力を入れた。しかし、残念なことにひときわ大きな波がやってきて、それが俺を飲み込んだ。俺はこの渦の予測不可能な濁流に翻弄され、流れに身を任せるしかなかった。
「信じられないかもしれませんが、実は私たちが住むことのできる世界はいくつかあるのです!」
「……はぁ?」
「えっと、わかりやすく言い直すと、こう、車で道を走っていて、隣の車線に車線変更するようなものです」
「うーん、よくわからないなぁ」
「男の子が浮気するようなものです」
「わ、わかりやすい!」
「えへへ~」
少女は肩をすくめながらはにかんだ。どうしてこいつはこうも動作の一つ一つが可愛さを極めているんだ! 俺はアニメをよく見ていて、それに出てくるキャラクターに萌えることはよくあるが、今感じているのはそんな生易しい萌えではない。彼女の萌えは、それを極限まで追求し、俺たち男のハートをつかむどころか、破裂せんばかりに強く締め上げてくる、「萌えの極み」であった。あぁ、萌え死ぬってこういうことなんだな、と本気で感じた。ついでに、先ほどのノリツッコミにも若干の違和感を覚え始めていた。
「あぁ! また変な目をしました!約束はちゃんと守ってくださいよ」
「あー悪い悪い」
こうやってさっきから俺は彼女の「萌え」に対して何度も謝罪をしている。悪いのは明らかに俺を萌え萌えさせてくる君じゃないか。なのになぜ俺のほうが謝らないといけないんだ。などと考えつつも、おそらく今後一切萌えなくなるということはあり得ないのだろうな、とも思っていた。この謝罪はせいぜい彼女への気休め程度にしかならないだろう。そのうち向こうも手を打ってくるかもしれないが。
「説明を続けますね。人間はそう簡単に世界を移動することはできません。そんなことができてしまったら、そもそも複数の世界の概念は存在しませんからね。世界を移動できる場所は決まっていて、そこで所定の手続きをすることで元の世界の記憶を保ったまま別の世界に移動することができるのです。ただ、移動した人は元の世界では「いなかった」ことになり、友人や同僚はおろか、家族からも記憶が消えてしまい、初めから存在しなかったことになってしまうのです」
「で、まさかとは思うけどここって……」
「はい! ここがまさに世界を移動できる場所。私たちはそれを高速道路で他の道路に接続するインターチェンジに例えて、「ワールド・インターチェンジ」と呼んでいます。そして私たちはそのインターチェンジを動かす、いわば管理人のようなものです」
「へぇ~。俺と同学年ぐらいの女の子がそんな役目をしているなんて、君って結構すごい奴なんだな」
「えへへ~」
少女は再び肩をすくめながらはにかんだ。どうしてこいつは、以下略。
「というわけで、なんかごちゃごちゃした説明は面倒くさいので省略するとして、あなたは毎日寝る前に「はぁ~、今日も無駄な一日だったなぁ……」と言っていますよね?」
「やけにリアルにものまねするな……それはそうと、なんでわかるんだ?」
「実は少し前からあなたのことをチェックしていたんです。このワールド・インターチェンジは人間が自ら進んで来られる場所じゃないので、私たちが「この人」っていうのを決めて、引き連れて来るんです。で、「この人」を決めるために私たちは常に現実世界を巡回しているのですが、その中であなたがヒットしたんです。ていうか、外まで聞こえるほどの大きな声で毎日「無駄な一日だった」なんてつぶやくものですから、嫌でも気になりますよ」
「そんなに大きな声だったのか俺の毎晩の愚痴は……」
「本当に。家族に聞こえなかっただけまだいいほうですよ」
「で、俺が「この人」っていうのに決まったんだよな? 俺をどうしてくれるんだ?」
「あなたに世界を移動する権利を与えます。あくまで「権利」なので、嫌なら断ってもいいんですよ。でも、相当悩んでいるようなので、移動して後悔することはないと思いますよ」
「俺としてもできることなら、こんな世界終わりにしたいよ。でも、移動先の世界でも同じ目に遭ったりしないか?」
「ご安心ください。世界は複数あると言いましたが、それらの世界の構造は実は少しずつ違います。だから、全く同じ境遇をたどったとしても結果が同じとは限りません。それと、それらの世界を管理しているのが、私たちです。ちょっとした権限で、世界の構造を、その人に有利なように変更することもできます。もちろん限度はありますし、変更の干渉によって思わぬ結果を招くこともあります」
「そうなのか。でもなぁ、家族だけは俺のことをわかってくれていて、俺も家族のことだけは信頼できる。それを捨てるのは嫌だな」
「その点もご安心ください。今言った「世界の構造を変更する」ことによって、あなたとその家族との間の信頼関係はそのまま引き継ぎます。ですから移動先でもこれまで通りの家庭生活を送ることができます」
「そうか。いいかもしれないな」
彼女の顔が真剣そのものになっていることに気付いた。可愛くありながら、プロの品格を感じ取ることができる。
「世界を移動できるチャンスは今、この夜が終わるまでです。もしあなたが断ったときは、私は次の人を探します。でも、世界を移動したがっている人はたくさんいます。ただ、この世界をあまりにも大きく改変、つまり多くの人を一度にたくさん移動させてしまうとその変化に世界の構造がついていけなくなって崩壊してしまいます。以前一晩に二人移動させたところ、危うく世界が崩壊しそうになりました。ですから、一晩で移動できるのは一人だけです。それに私たちは平等を大前提にしています。緊急を要する場合以外は短期間に同じ人を何度もここに連れて来て、世界を移動させることはできません。もし断ったならば、次にお会いできるのは早くても十年後ぐらいになると思います。どうしますか?」
彼女は、そのかわいらしい顔からは想像もできないほどの真剣な表情で詰め寄った。萌えとか胸キュンとか、今はそれどころじゃない。俺は、決断を迫られていた。それも、かつてないほどに大きな決断である。これは、俺の人生を大きく変えるものである。しかし、この時の俺に、もう迷いはなかった。答えは、最初から揺らぐことなどなかった。
「俺は、別の世界に行きたい。行って、ありのままの生活を送りたい」
「わかりました。それじゃあ、ここに座ってください」
少女は俺を、目の前のソファに座るよう誘導した。言われた通りに座る。それはとてもふかふかで、体全体を柔らかく包み込むようだった。
「そういえば名前を申し上げるのを忘れていました。私は竜野夢香と言います。この時間はここでこういう仕事をしていますが、昼間は世界中を飛び回っています。常に同じ世界にいるわけではありません。一日ごとに違う世界に移動しますし、違う国にも行きます。そうやって、この場所に来るべき人を探しているのです。もしよろしければあなたのお名前をお伺いしてもいいですか?」
「俺は姫路誠。よろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いします。といっても、移動先の世界で満足いただけたら、私と会うことはもうありませんけどね」
「そうなのか。それは残念だ。こうやって同年代の女の子と話すの、すんげえ久しぶりだったからさ」
「そうなんですか。実は私も、こういう仕事をしているのでなかなか同じぐらいの年代の男の子と話す機会がないんです。それに私、現実世界では、その……えっと……」
「嫌なら言わなくていい。君の悲しむ顔は見たくない」
「優しいんですね。誠さん」
ま、誠さんだってぇ!?いやぁ、うれしいなぁ!同年代の女の子に下の名前で呼んでもらえるなんて!しかも相手はとびっきり可愛い。こんな幸せ、味わっちゃっていいのか!?
「もう! またえっちな目をしました! ……あっ、ごめんなさい。つい誠さんのことをえっちだなんて……」
「いいよ。どうせ俺は下心全開の「えっち」な男だからさ」
「そんなドヤ顔で言われても困りますけど。おっと、しゃべりすぎました。そろそろ世界を移動しましょう」
「あぁ、お願いします」
俺は改めてソファに座り直し、それから彼女の指示通り、目をつむった。その後、彼女は何もしゃべらなくなった。服のこすれるような音からして、おそらく何か世界を移動するための力を集めているのだろう。十分ぐらい経った頃だろうか、彼女が再び話し始めた。
「準備ができました。今からあなたを別の世界に移動します」
「うん」
「その前に一つだけいいですか?」
「何だ?」
「こんなに楽しい時間を過ごせたの、誠さんが初めてです。ありがとうございました」
「こちらこそ、」
言おうと思ったときにはすでに世界はぐるぐる回り始めていた。ここに来たときと同じように、世界がまるで液体をかき回しているかのように無作為な模様を描き、次から次へと色や形を変化させていった。自分の目が回ってしまわないよう、何らかの形で視界を閉ざした。同時に、この混沌とした渦に飲み込まれないよう、足下に力を入れた。しかし、残念なことにひときわ大きな波がやってきて、それが俺を飲み込んだ。俺はこの渦の予測不可能な濁流に翻弄され、流れに身を任せるしかなかった。