再び意識が本来あるべき位置に戻ってきたとき、俺はいつか体験したのと同じように首から上しか実体が存在しないかのような感覚に陥っていた。外界は完全に真っ暗闇で、自分自身が今どこにいるのか、そもそも自分という存在が本当に存在しているのか。次々に降りかかる事実が俺をさらに混乱させ、ますますわけが分からなくなってくる。
「久しぶり、だね。まさか、こういう形で恵吾くんとまた会えることになるとは思わなかった。嬉しい、な……」
そのように話す少女に、どこか思い当たる節があった。しかし、それが何を示しているのかはわからず、少女が誰であるか、そして俺にとっての何であるかは、少なくとも現時点の俺にはわからなかった。
「ごめん……君と俺、どんな面識があったっけ……」
「……なるほど。恵吾くんの事情はわかったよ。そして、どうして私がここに来たのかも、ね」
少女はこの混乱した状況を、むしろ楽しんでいるかのような調子で続けた。
「ここは、おそらく心の乱れと記憶の錯誤が具現化した世界だね。恵吾くんは、ここに来るまでにきっと自分では抱えきれない心の大きな変化があったか、自分でもわけが分からないような、心境の変化があったと思う。世界の仕組みってなかなか面白くて、そういう混乱の度合いが自分の中での閾値を超えてしまうと、それがその人の世界線に影響を及ぼして、心の状態が具現化して現実の世界に何らかの影響を及ぼす世界に飛んでしまうみたい。いま、恵吾くんが悩んでいるのも、おそらくこれで説明がつくと思う」
「心の乱れが具現化した世界、か……それは、俺が以前体験した「やり直し」の世界とは違うのか」
「世界の仕組みは違うけど、世界線を移動する点では共通しているかな。心の変化が移動に関与しているのも一緒だね。恵吾くんは、ここ最近というか、だいぶ前から心に何か引っかかるものがあるんじゃない?」
「うん……俺が大切にしていて、でも事故で死んじゃった「早苗」って子が、実は「早苗」じゃなくて、俺が「早苗」の紹介で仲良くなって、人生のやり直しを重ねていく中で、結婚したり子供を授かったりした「瑠香」だったかもしれないんだ……」
「恵吾くんが本当に大切で、かけがえのない存在だって思ってるのは?」
「もちろん、早苗だ」
「恵吾くんが一生を捧げたい、あるいは身を委ねてほしいって思ってるのは?」
「もちろん、瑠香だ」
「……なるほどね。わかっちゃったかも」
少女は含み笑いを浮かべ、まるで俺のすべてを察しとったかのように満足げな表情を浮かべ、言葉を続けた。
「今の質問ね、こちらが意図している回答が一つだけ返ってくるはずの質問を、聞き方を変えて問うてみただけ。にも関わらず、恵吾くんはその質問に対して二つの答えを提示した。それも即答で。周囲の状況によって自分の心の状態が変化する、これこそが、恵吾くんがいま置かれている、不安定な状態なんだよ」
「でも、大切でかけがえがないのと、一生を捧げたり身を委ねてほしかったりって、意味は違うんじゃないか?」
「違わないよ」
その少女は、まるで誰か特定の人物をただすかのように強い口調できっぱりと答えた。彼女の返答は、なぜか俺の心に深く突き刺さった。
「女の子にとってみたら、そんな細かいニュアンスの違いなんて、誤差の範囲に過ぎないんだよ。大事なのは、恵吾くん自身が、たった一人の女の子を心の底から愛しているかどうか、なのよ」
「でも、俺にとってはどちらも大事な存在で……」
「甘い!そんなんだから、何度も何度も人生のやり直しをする羽目になるんじゃない!!一人の人間が複数の異性のことを大切にすることなんて、できないの……人は、たった一人の異性を愛すると決めたら、ほかの人間はどんなことをしてでも蹴落とさないといけないの。それが、たとえ自分にとっての命の恩人であったとしても、自分がいま愛している人とつながるきっかけを作ってくれた人であっても、ね……」
気が付くと、その少女は泣いていた。まるで、自分の発した言葉が自分に不幸をもたらすことをわかっていながら、それでも自分の思う相手が幸せになることをただ一心に願っているかのようであった。そして俺は、そんな彼女のことを全く思い出せないにもかかわらず、彼女の言葉は自らの心を深くえぐり、精神の表面を蝕んでいた不安定な思考を取り除いてくれたような気がした。
「この世界から抜け出す方法はただ一つ、自分の心の中のその混乱を一度整理して、自分の気持ちに正直になって、今のもやもやした考えに、たった一つの答えを見出すこと。きっと恵吾くんにとっては、痛みの伴うものになると思う。でも、その後には必ず、恵吾くんにとっての幸せが待ってると思う。きっと、二人を大切に思う気持ちを捨てきれずに二人とも会えず、想像の中の存在に頼って自慰にふけって偽物の幸福に身を任せているより、ずっといいことで、快楽を味わえることだと思う。最終的な判断をするのは恵吾くん、あなた自身だから」
「あの……!」
お礼を言おうと口を開いたその瞬間、少女はもういなくなっていた。これが不安定な世界なのか、などと、自分の手には到底負えない大きな事実を顧みながら、元の色彩が戻ってきた空を仰ぎ見ていた。
俺は、改めて先ほどの少女の言葉について考えていた。彼女の言うことが本当なのだとすれば、俺は瑠香か早苗のどちらか一人を選び、もう一人は見捨てなければならないことになる。だとすれば選ぶのはもちろん瑠香である。こういう言い方は早苗に極めて失礼だが、早苗―少なくとも俺が今まで「早苗」と認識していた少女―はもう亡くなってしまったが、瑠香はまだ生きている。そのうえ、やり直し世界での出来事ではあるが、お互いの将来を誓い合った。人生のやり直しを終える直前に早苗から聞いた「今まで通りの人生を過ごせば、必ず瑠香と結ばれる」という言葉が真実であれば、間違いなく瑠香を選んだほうが俺も、そして瑠香も、幸せになれる。
じゃあ、早苗はどうでもいいのか……?否。ましてや早苗は、俺と瑠香がこれほどまでに深い関係に至るきっかけを作ってくれた人物だ。そんな彼女の恩を仇で返すような真似をすることは、俺の心が決して許さなかった。それに、俺は早苗の心からの気持ちに対して言葉の暴力を突き立て、それが原因で早苗は命を落とした。間接的に彼女を殺した罪償いにほど遠いことはわかっているが、それでもせめて何か早苗にしてあげられることはないかを考え、俺は彼女の気持ちに応えるべく、このように瑠香を一生大事にする決意を決めつつ、早苗のこともかけがえの存在であると常に心に留めている。それが二股ではないことは明らかだが、かといって生半可な気持ちで早苗の気持ちに応えているつもりはない。
しかし、先ほどの少女が言うには、この二人に同時に愛を注ぐ状態が心の不安定化を招いているのだという。俺としては瑠香との幸せな日々を過ごしたい。しかし、そのために早苗を犠牲にするのは嫌だ。俺が抱えるにはあまりに重すぎる二つの現実の間で板挟みになり、埒が明かなかった。
俺は、再び喫茶店を訪れることにした。大切なあの子のための最適解を、求めるために。
「久しぶり、だね。まさか、こういう形で恵吾くんとまた会えることになるとは思わなかった。嬉しい、な……」
そのように話す少女に、どこか思い当たる節があった。しかし、それが何を示しているのかはわからず、少女が誰であるか、そして俺にとっての何であるかは、少なくとも現時点の俺にはわからなかった。
「ごめん……君と俺、どんな面識があったっけ……」
「……なるほど。恵吾くんの事情はわかったよ。そして、どうして私がここに来たのかも、ね」
少女はこの混乱した状況を、むしろ楽しんでいるかのような調子で続けた。
「ここは、おそらく心の乱れと記憶の錯誤が具現化した世界だね。恵吾くんは、ここに来るまでにきっと自分では抱えきれない心の大きな変化があったか、自分でもわけが分からないような、心境の変化があったと思う。世界の仕組みってなかなか面白くて、そういう混乱の度合いが自分の中での閾値を超えてしまうと、それがその人の世界線に影響を及ぼして、心の状態が具現化して現実の世界に何らかの影響を及ぼす世界に飛んでしまうみたい。いま、恵吾くんが悩んでいるのも、おそらくこれで説明がつくと思う」
「心の乱れが具現化した世界、か……それは、俺が以前体験した「やり直し」の世界とは違うのか」
「世界の仕組みは違うけど、世界線を移動する点では共通しているかな。心の変化が移動に関与しているのも一緒だね。恵吾くんは、ここ最近というか、だいぶ前から心に何か引っかかるものがあるんじゃない?」
「うん……俺が大切にしていて、でも事故で死んじゃった「早苗」って子が、実は「早苗」じゃなくて、俺が「早苗」の紹介で仲良くなって、人生のやり直しを重ねていく中で、結婚したり子供を授かったりした「瑠香」だったかもしれないんだ……」
「恵吾くんが本当に大切で、かけがえのない存在だって思ってるのは?」
「もちろん、早苗だ」
「恵吾くんが一生を捧げたい、あるいは身を委ねてほしいって思ってるのは?」
「もちろん、瑠香だ」
「……なるほどね。わかっちゃったかも」
少女は含み笑いを浮かべ、まるで俺のすべてを察しとったかのように満足げな表情を浮かべ、言葉を続けた。
「今の質問ね、こちらが意図している回答が一つだけ返ってくるはずの質問を、聞き方を変えて問うてみただけ。にも関わらず、恵吾くんはその質問に対して二つの答えを提示した。それも即答で。周囲の状況によって自分の心の状態が変化する、これこそが、恵吾くんがいま置かれている、不安定な状態なんだよ」
「でも、大切でかけがえがないのと、一生を捧げたり身を委ねてほしかったりって、意味は違うんじゃないか?」
「違わないよ」
その少女は、まるで誰か特定の人物をただすかのように強い口調できっぱりと答えた。彼女の返答は、なぜか俺の心に深く突き刺さった。
「女の子にとってみたら、そんな細かいニュアンスの違いなんて、誤差の範囲に過ぎないんだよ。大事なのは、恵吾くん自身が、たった一人の女の子を心の底から愛しているかどうか、なのよ」
「でも、俺にとってはどちらも大事な存在で……」
「甘い!そんなんだから、何度も何度も人生のやり直しをする羽目になるんじゃない!!一人の人間が複数の異性のことを大切にすることなんて、できないの……人は、たった一人の異性を愛すると決めたら、ほかの人間はどんなことをしてでも蹴落とさないといけないの。それが、たとえ自分にとっての命の恩人であったとしても、自分がいま愛している人とつながるきっかけを作ってくれた人であっても、ね……」
気が付くと、その少女は泣いていた。まるで、自分の発した言葉が自分に不幸をもたらすことをわかっていながら、それでも自分の思う相手が幸せになることをただ一心に願っているかのようであった。そして俺は、そんな彼女のことを全く思い出せないにもかかわらず、彼女の言葉は自らの心を深くえぐり、精神の表面を蝕んでいた不安定な思考を取り除いてくれたような気がした。
「この世界から抜け出す方法はただ一つ、自分の心の中のその混乱を一度整理して、自分の気持ちに正直になって、今のもやもやした考えに、たった一つの答えを見出すこと。きっと恵吾くんにとっては、痛みの伴うものになると思う。でも、その後には必ず、恵吾くんにとっての幸せが待ってると思う。きっと、二人を大切に思う気持ちを捨てきれずに二人とも会えず、想像の中の存在に頼って自慰にふけって偽物の幸福に身を任せているより、ずっといいことで、快楽を味わえることだと思う。最終的な判断をするのは恵吾くん、あなた自身だから」
「あの……!」
お礼を言おうと口を開いたその瞬間、少女はもういなくなっていた。これが不安定な世界なのか、などと、自分の手には到底負えない大きな事実を顧みながら、元の色彩が戻ってきた空を仰ぎ見ていた。
俺は、改めて先ほどの少女の言葉について考えていた。彼女の言うことが本当なのだとすれば、俺は瑠香か早苗のどちらか一人を選び、もう一人は見捨てなければならないことになる。だとすれば選ぶのはもちろん瑠香である。こういう言い方は早苗に極めて失礼だが、早苗―少なくとも俺が今まで「早苗」と認識していた少女―はもう亡くなってしまったが、瑠香はまだ生きている。そのうえ、やり直し世界での出来事ではあるが、お互いの将来を誓い合った。人生のやり直しを終える直前に早苗から聞いた「今まで通りの人生を過ごせば、必ず瑠香と結ばれる」という言葉が真実であれば、間違いなく瑠香を選んだほうが俺も、そして瑠香も、幸せになれる。
じゃあ、早苗はどうでもいいのか……?否。ましてや早苗は、俺と瑠香がこれほどまでに深い関係に至るきっかけを作ってくれた人物だ。そんな彼女の恩を仇で返すような真似をすることは、俺の心が決して許さなかった。それに、俺は早苗の心からの気持ちに対して言葉の暴力を突き立て、それが原因で早苗は命を落とした。間接的に彼女を殺した罪償いにほど遠いことはわかっているが、それでもせめて何か早苗にしてあげられることはないかを考え、俺は彼女の気持ちに応えるべく、このように瑠香を一生大事にする決意を決めつつ、早苗のこともかけがえの存在であると常に心に留めている。それが二股ではないことは明らかだが、かといって生半可な気持ちで早苗の気持ちに応えているつもりはない。
しかし、先ほどの少女が言うには、この二人に同時に愛を注ぐ状態が心の不安定化を招いているのだという。俺としては瑠香との幸せな日々を過ごしたい。しかし、そのために早苗を犠牲にするのは嫌だ。俺が抱えるにはあまりに重すぎる二つの現実の間で板挟みになり、埒が明かなかった。
俺は、再び喫茶店を訪れることにした。大切なあの子のための最適解を、求めるために。
※この物語はフィクションです。