廃墟のショッピングモールで起きた事件に巻き込まれて以降、俺は人生のやり直しを行うことができなくなった。中学を卒業しても、高校に入学しても、そして高校を卒業し、大学への進学を決めても……待てども待てども、人生のやり直しによって高校生、中学生、小学生……いずれにも戻ることができなかった。瑠香との関係は大学を卒業し、就職を決めてからも継続していた。かつて一度だけ見せた、瑠香の「もう一つの表情」を俺はいまだ忘れることができず、彼女に対する恐れと疑いを最後まで取り去ることはできなかったが、瑠香はそんな俺にいつまでも寄り添い続けてくれた。そして、その時は就職から3年経ったあるさわやかな晴れの日に訪れた。
「けーくん……私ね、けーくんと結婚したい……」
その瞬間、俺は暫く言葉を失うほかなかった。俺はこんなにも心の底から瑠香を愛することができていないのに?なぜ瑠香はこんな、極端な話、いつ浮気してもおかしくないような行動ばかりする俺に生涯を捧げようとしているのか?しかし、その答えは、瑠香の気持ちになって考えれば自明であった。瑠香は、中学の時から強い好奇心で俺に接し、俺のすべてを知ろうとした。そして、理解しようとした。実際に、瑠香は俺のすべてを理解してくれた。俺の価値観や考え方、性格、体の構造の一つ一つまで、くまなく知っている。だからこそ、俺と結婚しても、その後の人生に心配はない。俺が死ぬその瞬間まで、俺に添い遂げられると、きっと心の底から確信したのだろう。瑠香の気持ちに寄り添って考えたとき、俺の答えはただ一つだった。
「あぁ……結婚しよう、瑠香。」
「うん……けーくんならそう答えてくれると思ってたよ……ありがとね……」
瑠香は、あふれ出る涙を抑えきれなくなり、俺の胸元に飛び込んできた。そして、激しく嗚咽を漏らしながら、その幸せをじっくりとかみしめ、いくらかを俺に分け与えてくれた。
しかし、そんな幸福の絶頂にあるときでさえ、俺は人生やり直しのことを忘れずにはいられなかった。その目的は、もはや意識的に思い出すことができない。しかし、それでもなお、俺はどこか「人生をやり直して、何かを変えたい」との思いに駆られ、目的の見えない、そして行われることのないやり直しを所望し続けていた。あの出来事に巻き込まれるまでなら半ば強制的、半ば意識的に、やり直しを行うことができたが、今はそれもかなわない。後から聞いた話では、あの事件に巻き込まれた直後、数時間以内であれば警察に申告することで、データ復旧サービスによって吸い出された記憶を回復することができた。しかし、いきなりそのような世界に投げ出された俺にそのような知識などなく、結局俺は人生やり直しを行う権利と幼少期の記憶の一部を永久に失ってしまった。自分にはわからない、ある記憶は、相変わらず失われたままだった。
俺と瑠香の新たな生活は、これまでとあまり変わらなかった。これまでもお互いのことをよく理解しあい、深め合おうと互いに寄り添い続けていたので、結婚したからと言ってその後のお互いの関係が大きく変わるわけでもないし、少なくとも俺たちは変える必要はないという意見で一致していた。唯一、夜に瑠香が寝静まった後、夜空を見ると急に複雑な思いがこみ上がり、わけのわからない涙があふれ出て来ることだけが、それまでと変わったことだった。
「……けーくん?まだ起きてたの?」
瑠香が目を覚まし、こちらの様子をうかがった。瑠香のとろんとした寝ぼけ眼を見つめていると、先ほどまでのわけのわからない涙がさらにぐちゃぐちゃにかき回され、胸の奥がぎゅうっと痛くなり、そしてなぜだろう、俺の「もの」がだんだん太く硬くなっていった。
「けーくん、泣いてる。どうかしたの?」
「あぁ……ごめん。急に昔のことを思い出してさ。特に瑠香と会ってからの日のこと。あれから本当にいろいろなことがあって、いろんな大変なことがあって、時には俺が瑠香の恩を仇で返すようなことをしても、ずっと瑠香はこんな俺に寄り添ってくれて、どんなに死にたいと思うような時でも、瑠香がいてくれたおかげで、俺……」
「けーくん、本当に泣き虫さんだね。でも……さっきけーくんが考えてたこと、私のことじゃないでしょ?実は薄目を開けてけーくんのことずっと見てたんだけどね、なんかまるで、昔、私と仲良くなるより前からの馴染みの子を事故か何かで亡くして、でも最近その子の記憶があいまいになって、彼女のことを思い出してやれない自分が悔しい!みたいな顔してた……って、例えが変か」
「瑠香、実は……っ!」
俺は瑠香の胸元に飛び込み、今の瑠香の例えがほぼそのまま当たっていること、またしても瑠香に心配をかけてしまったこと、その「彼女」の名前をなんとしても思い出したいこと……自分がいま抱えているすべての思いを、文字通り余すところなく、彼女に伝えた。それは、時計のうろ覚えだけで2時間以上に及び、その間俺たちは心と体を完全に同期させるため、下腹部のある一点を通じた特別なつながりをもった。瑠香は俺の上にまたがり、体を上下に揺さぶらせながら、俺の話を一字一句漏らすことなく、最後まで聞いてくれた。そして、俺が放った遺伝子を、お腹の中で一滴残らず受け止めてくれた。
「じゃあさ、身辺調査しようよ。すごく地道で、時間はかかるかもしれないけど、これから何十年もけーくんがこのことでつらい思いをするよりは、きっと短い期間で、その子のことがわかるかもしれないよ。それに、けーくんの話聞いてたら、私もどうやらその子にいろいろ恩があるみたいだし、私もその子に関する記憶があいまいになっちゃってるから、ちゃんと思い出したい。一緒に、調べてみよう?」
俺はうなずく。俺たちが決意の口づけを交わしたころには、外はすでに朝になっていた。
それから俺たちは、仕事の合間や休日、長期休暇など、使える時間のすべてを「彼女」に関する調査に費やした。もともとこれといった趣味もなく、家では瑠香と抱き合いながらテレビを見るだけの毎日を過ごしていたので、これはこれで新鮮な毎日である。もちろん瑠香自身もこの調査に協力してくれているので、瑠香と一緒にいられる時間はほとんど変わらなかった。こんなに変わり果てた世界であっても一応行政は(少なくとも形式上は)まともに機能しており、やはり第三者が勝手に個人情報を調べることはできなかったので、俺たちは小中高の資料を実家から取り寄せ、交友関係があったと思われる人と一人一人接触を試みた。ほとんどの人は連絡先が変わったり、この変わり果てた世界で起き続けている混乱に巻き込まれて命を落とすなどしてコンタクトを取ることすらままならなかったが、それでも何人かとは連絡を取ることができ、実際に顔を合わせることもできた。といっても外界は俺が遭ったように危険が潜んでいるため、インターネットを用いたビデオ通話の形ではあるが。
身辺調査を始めてから3か月ほどが経ったある日、俺たちはこれから中学時代のクラスメイトの女子と通話をしようとしていた。その女子は中学時代の俺と瑠香、「彼女」の共通の話し相手で、俺の記憶が正しければ中学の定期テストで俺と瑠香のワンツーフィニッシュに次いで、いつも3位か4位を取り続けていた。高校は俺と同じ所へ進学していたが、以降のその女子の動向はよく覚えていない。
「あっ、そうそう、通話する前にひとつだけいい?」
瑠香がもじもじしながら俺に尋ねる。俺がうなずくと、瑠香はお腹を軽くさすりながらささやいた。
「けーくんと私の赤ちゃん、できたよ。こないだの夜のあれ……うまくいったみたい……」
「……!」
何か言葉が出るより先に、制御の効かない涙があふれ出てきた。あまりに嬉しすぎて、幸せすぎて、瑠香に対する言葉を考える余裕もなく、感情があふれ出てきた。ひとしきり涙を流した後、涙で視界がぼやけるのを腕で拭いながら、ようやっと瑠香に「おめでとう」と伝えることができた。俺は彼女のお腹を見つめ、やさしく撫でた。それまでも俺たちは「お互いのことを隅々まで知る」と称して周りの人よりも少し早くつながったあの日以来、何十回と特別なつながりを持ち、お互いの気持ちをすみずみまで共有していたが、3か月前のあの夜の出来事だけは、行ったことは同じにしてもその結果はこれまでにない特別なものであった。今、瑠香は妊娠しており、瑠香のお腹の中には俺と瑠香の間に生まれた新しい命が宿っている……そのことを噛みしめるにつれ、この世のあらゆるものを用いても表現しえない感動がこみあがり、うれしさで再び涙が止まらなくなる。
「さて、うれしい発表も終わったことだし、さっそく今日の調査始めようか」
「だな」
しかし、わずか数分後に、先ほどとは真逆の涙を流すことになった。幸せに満ちあふれた感情の泉がまるごとそのままひっくり返され、次第に涙を流すことすらできなくなった俺たちは、ビデオ通話をつないだままパソコンの前で放心状態になるほかなかった。
「リドウサナエ。たしか……高校二年になって間もないころに交通事故で亡くなったはずだよ」
リドウ、サナエ。その6文字を聞いた瞬間、今まで心の奥底で閉ざされていた壺の蓋がポコンッと開く音がした。そして、その中に閉じ込められていたものはあまりにも多く、まばたきするより早く体全体に広がった。それは、今の俺がすぐに受け止められられるような分量ではなく、瞬間的に脳のキャパシティを超え、俺は意識を失った。一足早く放心状態から回復した瑠香が「けーくん、大丈夫!?」と叫ぶ声が、次第に遠のいていく。頭がひどく締め付けられる。
「けーくん……私ね、けーくんと結婚したい……」
その瞬間、俺は暫く言葉を失うほかなかった。俺はこんなにも心の底から瑠香を愛することができていないのに?なぜ瑠香はこんな、極端な話、いつ浮気してもおかしくないような行動ばかりする俺に生涯を捧げようとしているのか?しかし、その答えは、瑠香の気持ちになって考えれば自明であった。瑠香は、中学の時から強い好奇心で俺に接し、俺のすべてを知ろうとした。そして、理解しようとした。実際に、瑠香は俺のすべてを理解してくれた。俺の価値観や考え方、性格、体の構造の一つ一つまで、くまなく知っている。だからこそ、俺と結婚しても、その後の人生に心配はない。俺が死ぬその瞬間まで、俺に添い遂げられると、きっと心の底から確信したのだろう。瑠香の気持ちに寄り添って考えたとき、俺の答えはただ一つだった。
「あぁ……結婚しよう、瑠香。」
「うん……けーくんならそう答えてくれると思ってたよ……ありがとね……」
瑠香は、あふれ出る涙を抑えきれなくなり、俺の胸元に飛び込んできた。そして、激しく嗚咽を漏らしながら、その幸せをじっくりとかみしめ、いくらかを俺に分け与えてくれた。
しかし、そんな幸福の絶頂にあるときでさえ、俺は人生やり直しのことを忘れずにはいられなかった。その目的は、もはや意識的に思い出すことができない。しかし、それでもなお、俺はどこか「人生をやり直して、何かを変えたい」との思いに駆られ、目的の見えない、そして行われることのないやり直しを所望し続けていた。あの出来事に巻き込まれるまでなら半ば強制的、半ば意識的に、やり直しを行うことができたが、今はそれもかなわない。後から聞いた話では、あの事件に巻き込まれた直後、数時間以内であれば警察に申告することで、データ復旧サービスによって吸い出された記憶を回復することができた。しかし、いきなりそのような世界に投げ出された俺にそのような知識などなく、結局俺は人生やり直しを行う権利と幼少期の記憶の一部を永久に失ってしまった。自分にはわからない、ある記憶は、相変わらず失われたままだった。
俺と瑠香の新たな生活は、これまでとあまり変わらなかった。これまでもお互いのことをよく理解しあい、深め合おうと互いに寄り添い続けていたので、結婚したからと言ってその後のお互いの関係が大きく変わるわけでもないし、少なくとも俺たちは変える必要はないという意見で一致していた。唯一、夜に瑠香が寝静まった後、夜空を見ると急に複雑な思いがこみ上がり、わけのわからない涙があふれ出て来ることだけが、それまでと変わったことだった。
「……けーくん?まだ起きてたの?」
瑠香が目を覚まし、こちらの様子をうかがった。瑠香のとろんとした寝ぼけ眼を見つめていると、先ほどまでのわけのわからない涙がさらにぐちゃぐちゃにかき回され、胸の奥がぎゅうっと痛くなり、そしてなぜだろう、俺の「もの」がだんだん太く硬くなっていった。
「けーくん、泣いてる。どうかしたの?」
「あぁ……ごめん。急に昔のことを思い出してさ。特に瑠香と会ってからの日のこと。あれから本当にいろいろなことがあって、いろんな大変なことがあって、時には俺が瑠香の恩を仇で返すようなことをしても、ずっと瑠香はこんな俺に寄り添ってくれて、どんなに死にたいと思うような時でも、瑠香がいてくれたおかげで、俺……」
「けーくん、本当に泣き虫さんだね。でも……さっきけーくんが考えてたこと、私のことじゃないでしょ?実は薄目を開けてけーくんのことずっと見てたんだけどね、なんかまるで、昔、私と仲良くなるより前からの馴染みの子を事故か何かで亡くして、でも最近その子の記憶があいまいになって、彼女のことを思い出してやれない自分が悔しい!みたいな顔してた……って、例えが変か」
「瑠香、実は……っ!」
俺は瑠香の胸元に飛び込み、今の瑠香の例えがほぼそのまま当たっていること、またしても瑠香に心配をかけてしまったこと、その「彼女」の名前をなんとしても思い出したいこと……自分がいま抱えているすべての思いを、文字通り余すところなく、彼女に伝えた。それは、時計のうろ覚えだけで2時間以上に及び、その間俺たちは心と体を完全に同期させるため、下腹部のある一点を通じた特別なつながりをもった。瑠香は俺の上にまたがり、体を上下に揺さぶらせながら、俺の話を一字一句漏らすことなく、最後まで聞いてくれた。そして、俺が放った遺伝子を、お腹の中で一滴残らず受け止めてくれた。
「じゃあさ、身辺調査しようよ。すごく地道で、時間はかかるかもしれないけど、これから何十年もけーくんがこのことでつらい思いをするよりは、きっと短い期間で、その子のことがわかるかもしれないよ。それに、けーくんの話聞いてたら、私もどうやらその子にいろいろ恩があるみたいだし、私もその子に関する記憶があいまいになっちゃってるから、ちゃんと思い出したい。一緒に、調べてみよう?」
俺はうなずく。俺たちが決意の口づけを交わしたころには、外はすでに朝になっていた。
それから俺たちは、仕事の合間や休日、長期休暇など、使える時間のすべてを「彼女」に関する調査に費やした。もともとこれといった趣味もなく、家では瑠香と抱き合いながらテレビを見るだけの毎日を過ごしていたので、これはこれで新鮮な毎日である。もちろん瑠香自身もこの調査に協力してくれているので、瑠香と一緒にいられる時間はほとんど変わらなかった。こんなに変わり果てた世界であっても一応行政は(少なくとも形式上は)まともに機能しており、やはり第三者が勝手に個人情報を調べることはできなかったので、俺たちは小中高の資料を実家から取り寄せ、交友関係があったと思われる人と一人一人接触を試みた。ほとんどの人は連絡先が変わったり、この変わり果てた世界で起き続けている混乱に巻き込まれて命を落とすなどしてコンタクトを取ることすらままならなかったが、それでも何人かとは連絡を取ることができ、実際に顔を合わせることもできた。といっても外界は俺が遭ったように危険が潜んでいるため、インターネットを用いたビデオ通話の形ではあるが。
身辺調査を始めてから3か月ほどが経ったある日、俺たちはこれから中学時代のクラスメイトの女子と通話をしようとしていた。その女子は中学時代の俺と瑠香、「彼女」の共通の話し相手で、俺の記憶が正しければ中学の定期テストで俺と瑠香のワンツーフィニッシュに次いで、いつも3位か4位を取り続けていた。高校は俺と同じ所へ進学していたが、以降のその女子の動向はよく覚えていない。
「あっ、そうそう、通話する前にひとつだけいい?」
瑠香がもじもじしながら俺に尋ねる。俺がうなずくと、瑠香はお腹を軽くさすりながらささやいた。
「けーくんと私の赤ちゃん、できたよ。こないだの夜のあれ……うまくいったみたい……」
「……!」
何か言葉が出るより先に、制御の効かない涙があふれ出てきた。あまりに嬉しすぎて、幸せすぎて、瑠香に対する言葉を考える余裕もなく、感情があふれ出てきた。ひとしきり涙を流した後、涙で視界がぼやけるのを腕で拭いながら、ようやっと瑠香に「おめでとう」と伝えることができた。俺は彼女のお腹を見つめ、やさしく撫でた。それまでも俺たちは「お互いのことを隅々まで知る」と称して周りの人よりも少し早くつながったあの日以来、何十回と特別なつながりを持ち、お互いの気持ちをすみずみまで共有していたが、3か月前のあの夜の出来事だけは、行ったことは同じにしてもその結果はこれまでにない特別なものであった。今、瑠香は妊娠しており、瑠香のお腹の中には俺と瑠香の間に生まれた新しい命が宿っている……そのことを噛みしめるにつれ、この世のあらゆるものを用いても表現しえない感動がこみあがり、うれしさで再び涙が止まらなくなる。
「さて、うれしい発表も終わったことだし、さっそく今日の調査始めようか」
「だな」
しかし、わずか数分後に、先ほどとは真逆の涙を流すことになった。幸せに満ちあふれた感情の泉がまるごとそのままひっくり返され、次第に涙を流すことすらできなくなった俺たちは、ビデオ通話をつないだままパソコンの前で放心状態になるほかなかった。
「リドウサナエ。たしか……高校二年になって間もないころに交通事故で亡くなったはずだよ」
リドウ、サナエ。その6文字を聞いた瞬間、今まで心の奥底で閉ざされていた壺の蓋がポコンッと開く音がした。そして、その中に閉じ込められていたものはあまりにも多く、まばたきするより早く体全体に広がった。それは、今の俺がすぐに受け止められられるような分量ではなく、瞬間的に脳のキャパシティを超え、俺は意識を失った。一足早く放心状態から回復した瑠香が「けーくん、大丈夫!?」と叫ぶ声が、次第に遠のいていく。頭がひどく締め付けられる。
※この物語はフィクションです。