俺の教室での一日は、扉を開け、足を踏み入れるより先に発する挨拶から始まる。しかし、今の俺には、その習慣を遂行することはできても今までと同じような、我ながら朝日のごとくさわやかな声を上げることはできなかった。
「おはよう……」
蚊の鳴く音より小さな俺の挨拶にも、瑠香は瞬間的に反応してくれた。
「おはよっ、けーくん!どうしたの?元気ないね?」
「ううん……今朝ちょっと悪夢を見てしまって……」
それは悪夢でもなんでもなく、実際にこの身に起こった現実の出来事であったが、今の彼女にそれを話しても、信じてもらえるまでにはある程度の時間がかかる。時間がかかってでもわかってもらえるのであれば別にいい。そもそも俺の身に起こっている不可思議な現象を理解しようとしてくれるだろうか……俺はおそるおそる、彼女の名前を呼んだ。
「……瑠香?」
「うん!けーくんが見た夢がどんなものかはわからないけど、今までけーくんが「瑠香」って呼んでくれた女の子は今、ここにいるし、あなたは私が「けーくん」って呼んでる男の子だよ。……あっ!もしかして、今朝けーくんが見た夢って、私がどっかへ行っちゃうか、死んじゃう夢だったり?」
「うっ……まぁ、そんなとこかな」
きみのような勘のいい女は……瑠香なら許す。などと心の中で付け加えておいた。
「夢って、本当に内容を自分の意志で選ぶことできないし、内容も容赦ないものが多いよね~。まぁでも、私がけーくんを置いてどっか行くなんてことは絶対しないけどね、えへへ~」
その言葉を聞いて、俺は涙が出そうになるほど安堵した。実際に目頭が熱くなる感覚がした。少なくとも今俺がいるこの世界は、俺と瑠香の関係に異常は起こっておらず、俺たちはかつてのようにお互いを高めあい、この世で表現しうるいかなる言葉を用いても足りないほど強固な関係を築ける環境にあることが分かった。
しかし、瑠香と勉強を教えあっているとき、他愛もない話をしているとき、お互いの体のまさぐりあいをしているとき、ふと、かつて一度だけ見てしまった、瑠香のおびえた表情、怖れ、怒り、悲しみの感情が混じった悲鳴、凍り付くような静けさの中、ただ一人自分のものをまさぐったあの時間……瑠香の「もう一つの表情」がフラッシュバックする。彼女のもう一つの一面を知ってしまった俺は、かつてのように心の底から瑠香のことを信じ、自らのすべてを瑠香に委ね、瑠香が委ねた彼女のすべてを受け止めることが、できなくなっていた。
「けーくん……なんか悩み事ある?こないだの夢のこと……まだ気にしてたりする?なんかね……私ね、けーくんと心の底から通じ合いたい、心も体も一緒になりたいって思ってるんだけどね……けーくんも私と、何もかも一緒になりたいって考えてるの、すごく伝わってくるんだけどね……ほんの少しだけ、歯車がかみ合わないみたいなんだ。悩みを抱えてるけーくんを見るの、私……ちょっとつらいかな。もし、話せることがあったら、私に言ってほしいな?」
それでも瑠香は、俺のこんな事情など知らず、かつてのころと全く同じように、俺に心を開いてくれる。彼女の言う通り、歯車がほんの少しだけかみ合わない。でも、俺にとってはそのほんの少しが、とてもつらくて。いけないことだとわかっていても、心の奥底の本当の感情に逆らうことはできず、俺は涙を流してしまった。くそっ、こんなことしたら、瑠香が心配するのに。瑠香に迷惑かけるのに。瑠香だけを思うその感情が、涙をさらに増幅させ、ますます制御がきかなくなっていく。瑠香は、わけもなく涙を流すこんな俺を、それでも自分に何かできることはないかと必死に考えた末、ぎゅうっと、強く抱きしめてくれた。俺はその小さな胸に顔をうずめ、瑠香のすべてを感じながら、しばしコントロールできないこの感情をやり過ごした。
四度目のやり直し人生が始まってからずっと続いていた不安定な感情がようやっと落ち着き始めたある日、俺はふと我に返って自問自答した。
「俺は、なぜこんなにも焦っているのか。誰のために、なぜ、こんなにも不安や恐怖に苛まれ、おびえながら毎日を過ごしているのだろうか。なぜ、俺は何度も何度も、たくさんの失うもの、つらいことを体験しながら、それでもなお人生のやり直しを所望するのか、そしてそれによって、俺は何を得たいのか」
その答えは、何回か前のやり直し時には容易に思い出すことができたはずだった。少なくとも、その時に容易に手がかりを思い出すことができたという記憶が俺の中に残っている。しかし、どうしてだろう、今の俺にはその理由をすぐに思い出すことができないでいた。喉元に何かがつっかえていて、あともう少しのところでそれが分かるのに、それが出て来ない。すごくもどかしくて、でもその思い出せないでいることが自分にとっての重大な事実であることと、すでにこの世にいない、大切な誰かを追い続けているというだけは鮮明に思い出すことができて、もう何度味わったかもわからない、出処のわからない不安と怒りに襲われる。
おかしくなっていたのは自分の記憶だけではなかった。俺は何気なく町中を歩きながら、ふと気づいたある異変に、まるで中二病患者かのごとく、思わずこの言葉を発せずにはいられなかった。
「この世界が、少しずつおかしくなっている……」
それは決して気のせいとかではなく、明らかに自分でおかしいと判断できる領域で起こっていた。そんなことを考えながら、たった今目の前を通り過ぎていった、俺が好きな漫画の登場人物の、コスプレにしてはあまりにリアルすぎる、声から容姿から何から何まですべて、それまで自分が漫画のだけでしか見ることができなかったその姿を、目で追いかけた。
頭の中をうごめく不気味な感情は、日常生活、特に瑠香と過ごす毎日に、少なからぬ影響を与え始めていた。
「……くん、けーくん、……けーくん!!」
「うわあ!?」
俺はかなり深い白昼夢に陥っていた。いま、瑠香に声をかけてもらわなければ、そのまま夕暮れを迎えてしまうかのような、あまりに深いものであった。
「ごめん……俺、また考え事してた……」
「けーくん、本当に大丈夫?私、けーくんに何もしてあげられくて……ごめんね……」
「いや、俺は瑠香がいてくれるおかげで、ずいぶん気が楽になれてると思う。こんなこと、一人で抱え込んでたらそれこそ病気になりかねん。だから、こんな俺でも、ずっとそばにいてくれて、本当にありがとな」
「ううん、私は好きでそばにいるだけ。感謝されるほどのことじゃないよ。……でも、そういう風に言われたら、私、結構うれしい……かもっ」
そして俺は再び瑠香に包み込まれ、自らの中にうずまく混沌をうまい具合に中和した。普通の女子であれば、これほどまで取り乱してしまえば、まずは浮気か破局を疑うところだが、瑠香は、少なくとも俺たちの強固な思いの通じ合いの限りではそのような素振りは一切感じさせず、どんなに挙動を乱していても、まず俺の心配をしてくれて、いつまでも放り出さずに寄り添ってくれる瑠香の存在が、本当にうれしかった。しかしそれは、同時に自分の心の奥底に潜んでいる不安を増幅させることでもあり、瑠香に抱きしめられることをうれしく、幸せに感じながらも、いつの日かそれが破裂し、掌を返して俺に想像もできないほどの不幸をもたらして立ち去ってしまうのではと、ほんの少しだけでも考えてしまう自分がいて、瑠香には申し訳ない、恩を仇で返してしまうような行為であることはわかっていても、今すぐ瑠香から離れてしまいたいとも感じていた。
何もかもが混沌の世界であるかのように思えてきたある日、俺はいまだかつて経験したことがない激しい雷雨に見舞われた。
「おはよう……」
蚊の鳴く音より小さな俺の挨拶にも、瑠香は瞬間的に反応してくれた。
「おはよっ、けーくん!どうしたの?元気ないね?」
「ううん……今朝ちょっと悪夢を見てしまって……」
それは悪夢でもなんでもなく、実際にこの身に起こった現実の出来事であったが、今の彼女にそれを話しても、信じてもらえるまでにはある程度の時間がかかる。時間がかかってでもわかってもらえるのであれば別にいい。そもそも俺の身に起こっている不可思議な現象を理解しようとしてくれるだろうか……俺はおそるおそる、彼女の名前を呼んだ。
「……瑠香?」
「うん!けーくんが見た夢がどんなものかはわからないけど、今までけーくんが「瑠香」って呼んでくれた女の子は今、ここにいるし、あなたは私が「けーくん」って呼んでる男の子だよ。……あっ!もしかして、今朝けーくんが見た夢って、私がどっかへ行っちゃうか、死んじゃう夢だったり?」
「うっ……まぁ、そんなとこかな」
きみのような勘のいい女は……瑠香なら許す。などと心の中で付け加えておいた。
「夢って、本当に内容を自分の意志で選ぶことできないし、内容も容赦ないものが多いよね~。まぁでも、私がけーくんを置いてどっか行くなんてことは絶対しないけどね、えへへ~」
その言葉を聞いて、俺は涙が出そうになるほど安堵した。実際に目頭が熱くなる感覚がした。少なくとも今俺がいるこの世界は、俺と瑠香の関係に異常は起こっておらず、俺たちはかつてのようにお互いを高めあい、この世で表現しうるいかなる言葉を用いても足りないほど強固な関係を築ける環境にあることが分かった。
しかし、瑠香と勉強を教えあっているとき、他愛もない話をしているとき、お互いの体のまさぐりあいをしているとき、ふと、かつて一度だけ見てしまった、瑠香のおびえた表情、怖れ、怒り、悲しみの感情が混じった悲鳴、凍り付くような静けさの中、ただ一人自分のものをまさぐったあの時間……瑠香の「もう一つの表情」がフラッシュバックする。彼女のもう一つの一面を知ってしまった俺は、かつてのように心の底から瑠香のことを信じ、自らのすべてを瑠香に委ね、瑠香が委ねた彼女のすべてを受け止めることが、できなくなっていた。
「けーくん……なんか悩み事ある?こないだの夢のこと……まだ気にしてたりする?なんかね……私ね、けーくんと心の底から通じ合いたい、心も体も一緒になりたいって思ってるんだけどね……けーくんも私と、何もかも一緒になりたいって考えてるの、すごく伝わってくるんだけどね……ほんの少しだけ、歯車がかみ合わないみたいなんだ。悩みを抱えてるけーくんを見るの、私……ちょっとつらいかな。もし、話せることがあったら、私に言ってほしいな?」
それでも瑠香は、俺のこんな事情など知らず、かつてのころと全く同じように、俺に心を開いてくれる。彼女の言う通り、歯車がほんの少しだけかみ合わない。でも、俺にとってはそのほんの少しが、とてもつらくて。いけないことだとわかっていても、心の奥底の本当の感情に逆らうことはできず、俺は涙を流してしまった。くそっ、こんなことしたら、瑠香が心配するのに。瑠香に迷惑かけるのに。瑠香だけを思うその感情が、涙をさらに増幅させ、ますます制御がきかなくなっていく。瑠香は、わけもなく涙を流すこんな俺を、それでも自分に何かできることはないかと必死に考えた末、ぎゅうっと、強く抱きしめてくれた。俺はその小さな胸に顔をうずめ、瑠香のすべてを感じながら、しばしコントロールできないこの感情をやり過ごした。
四度目のやり直し人生が始まってからずっと続いていた不安定な感情がようやっと落ち着き始めたある日、俺はふと我に返って自問自答した。
「俺は、なぜこんなにも焦っているのか。誰のために、なぜ、こんなにも不安や恐怖に苛まれ、おびえながら毎日を過ごしているのだろうか。なぜ、俺は何度も何度も、たくさんの失うもの、つらいことを体験しながら、それでもなお人生のやり直しを所望するのか、そしてそれによって、俺は何を得たいのか」
その答えは、何回か前のやり直し時には容易に思い出すことができたはずだった。少なくとも、その時に容易に手がかりを思い出すことができたという記憶が俺の中に残っている。しかし、どうしてだろう、今の俺にはその理由をすぐに思い出すことができないでいた。喉元に何かがつっかえていて、あともう少しのところでそれが分かるのに、それが出て来ない。すごくもどかしくて、でもその思い出せないでいることが自分にとっての重大な事実であることと、すでにこの世にいない、大切な誰かを追い続けているというだけは鮮明に思い出すことができて、もう何度味わったかもわからない、出処のわからない不安と怒りに襲われる。
おかしくなっていたのは自分の記憶だけではなかった。俺は何気なく町中を歩きながら、ふと気づいたある異変に、まるで中二病患者かのごとく、思わずこの言葉を発せずにはいられなかった。
「この世界が、少しずつおかしくなっている……」
それは決して気のせいとかではなく、明らかに自分でおかしいと判断できる領域で起こっていた。そんなことを考えながら、たった今目の前を通り過ぎていった、俺が好きな漫画の登場人物の、コスプレにしてはあまりにリアルすぎる、声から容姿から何から何まですべて、それまで自分が漫画のだけでしか見ることができなかったその姿を、目で追いかけた。
頭の中をうごめく不気味な感情は、日常生活、特に瑠香と過ごす毎日に、少なからぬ影響を与え始めていた。
「……くん、けーくん、……けーくん!!」
「うわあ!?」
俺はかなり深い白昼夢に陥っていた。いま、瑠香に声をかけてもらわなければ、そのまま夕暮れを迎えてしまうかのような、あまりに深いものであった。
「ごめん……俺、また考え事してた……」
「けーくん、本当に大丈夫?私、けーくんに何もしてあげられくて……ごめんね……」
「いや、俺は瑠香がいてくれるおかげで、ずいぶん気が楽になれてると思う。こんなこと、一人で抱え込んでたらそれこそ病気になりかねん。だから、こんな俺でも、ずっとそばにいてくれて、本当にありがとな」
「ううん、私は好きでそばにいるだけ。感謝されるほどのことじゃないよ。……でも、そういう風に言われたら、私、結構うれしい……かもっ」
そして俺は再び瑠香に包み込まれ、自らの中にうずまく混沌をうまい具合に中和した。普通の女子であれば、これほどまで取り乱してしまえば、まずは浮気か破局を疑うところだが、瑠香は、少なくとも俺たちの強固な思いの通じ合いの限りではそのような素振りは一切感じさせず、どんなに挙動を乱していても、まず俺の心配をしてくれて、いつまでも放り出さずに寄り添ってくれる瑠香の存在が、本当にうれしかった。しかしそれは、同時に自分の心の奥底に潜んでいる不安を増幅させることでもあり、瑠香に抱きしめられることをうれしく、幸せに感じながらも、いつの日かそれが破裂し、掌を返して俺に想像もできないほどの不幸をもたらして立ち去ってしまうのではと、ほんの少しだけでも考えてしまう自分がいて、瑠香には申し訳ない、恩を仇で返してしまうような行為であることはわかっていても、今すぐ瑠香から離れてしまいたいとも感じていた。
何もかもが混沌の世界であるかのように思えてきたある日、俺はいまだかつて経験したことがない激しい雷雨に見舞われた。
※この物語はフィクションです。
第5話の掲載が遅れましたことをお詫びします。