月日はいつしかめぐりめぐって、俺は高校を卒業した。祝福ムードいっぱいの学校をそそくさと抜け出し、向かった先はもちろん、いつもの喫茶店だった。扉を開けると、まるでこの空間は卒業も入学も知ったこっちゃないとでも言わんばかりのもっさりした、いつもと全く同じ、俺の好みの空気が漂っていた。
「やあ坊っちゃん、卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
「あ!誠くんもやっぱり来たのね?」
「もちろんだよ」
マスターは、一応俺たちの高校の卒業式の存在は知っていたようで、俺に対して祝福の言葉をかけてくれた。あるいは優がマスターに教えたのかもしれないが。
「誠くんは県外の大学?」
「あぁ。優も?」
「うん。だから、今日でここに通うのも終わりだな、って思って」
「そうだな。定期的に通えるのは今日が最後だな。まぁ、休暇中とかは実家に戻ってくるから、来れないこともないけど」
「だね。私も夏休みや冬休みはこっちに戻ってくるつもりだから、その時は時間合わせて来ようね」
「そっか~、二人とも会う機会減ってしまうのか~。なら、その分二人がまた来た時はごちそうでも作っておかないとな~」
俺たちは微笑みを返す。それからは、いつものように三人で夕方近くまで雑談を楽しんだ。今日はさすがに宿題はないが、学校を出る前に卒業アルバムをもらったので、これでいくぶん話が盛り上がった。マスターも、自らの高校時代の思い出をたくさん話してくれた。その多くは、以前一回以上聞いたことがある内容だったが。
「「ごちそうさまでした。そして、今までありがとうございました」」
「なーに今日でもう二度と会えない雰囲気出してるのさ。また休暇中でもいつでも、暇なときに遊びに来たらいいさ~」
俺たちは喫茶店を出る。春が近いというのにまだ空気は冷たくて、びゅうっと吹いた風に思わず身をこわばらせる。
「じゃあ、また会える時まで」
「うん。といっても、メールとかがあるし、連絡自体はいつでも取れるよね」
「まぁな。休暇前になったら、いつごろここに来れそうか連絡するよ」
「うん!じゃあ、またね!」
優は再び学校に戻るというので、今日は喫茶店の前で解散となった。俺は、あんないろいろなことがあった学校には出来るだけ近づきたくないという思いがあったので、さっさと帰宅することにした。
あの日、まばゆい光や混沌とした感覚に翻弄されてからどうなったかと言うと、俺はいつものように目をさまし、いつものように学校へ行き、普通に勉強に励み、とにかく普通の毎日を過ごした。そして、学力も普通ぐらい身について、第一志望の大学に無事合格した。先ほどの会話の通り、県外の大学を受験し、合格したので、この春から俺は下宿を始めることとなった。準備は忙しいが、初めてのことばかりで、今は不安よりも期待のほうが大きい。何より、あんな思いをした高校をようやく卒業し、晴れて大学生となれるわけだ。新生活がどのようなものになるのかと、胸を膨らませる。
あれから俺は一度もワールド・インターチェンジに関する夢を見なくなった。どうやら、夢香は本当に存在を抹消され、少なくともワールド・インターチェンジの世界からはいなくなった。わかってはいたことだが、夢を見なくなったことによってそれがよりはっきりした現実として俺の前に立ちはだかった。実は今でも時々、「なんかの間違いで夢で会えないかな」などと少しばかり期待する自分がいる。わかってるよ、いないことぐらい。でも、こうやって過去をいつまでも引きずるのは、あの時最高の契約を結んだ夢香に対して失礼なのではないかとも考え、思いが暴走するのを抑えている。ふと、存在が抹消されたはずなのに俺の夢香に関する記憶がすべて思い出せることに気付く。
大学の入学式を前日に迎えた日、俺はこれからの新生活を送る下宿先に先に荷物を運び入れ、一足早く一人暮らしを始めていた。朝からの荷物の搬入とそれらの整理整頓、配置がようやく終わったころにはもう夜だった。いつもなら寝るには少し早い時間だったが、今日は一日中働きっぱなしで疲れたし、明日は入学式だ。大学生活一日目で遅刻するわけにはいかないので、大事を取ってもう寝ることにした。部屋の電気を消すと、実家に住んでいた時とはまた違う外のあかりが部屋をほんのり照らしていた。「はぁ、いよいよ新生活が始まるのか……」などと思いながら、なんとなくの気分でベランダからの夜景を眺めてみたくなり、窓を開けてみた。今まで見たことのない街のあかりがこの一帯をわずかに明るくしていた。実家の自分の部屋から見た夜景は、遠くに工場のあかりが二~三個あるだけでほぼ真っ暗だったので、それだけでこの下宿先が「都会」であることを感じさせられた。もっとも、この閑静な住宅街のすぐ近くを走る道路を進めば市街地に容易に出ることができるのだが。
「ま・こ・と・さんっ」
いつか、どこかで聞いたことあるその声に、先ほどまでのぼんやりした思いが中断させられる。ベランダの右のほうの手すりに目を向ける。そこには、家のすぐ前にある街灯によってわずかに照らされた……夢香が座っていた。
「……っ!」
俺は何か物事を考えるよりも感情が先走り、ワールド・インターチェンジに呼び出されなくなってから今まで心の奥底で眠っていた思いが一気に大きな波となって押し寄せ、あらがう間もなくそれに飲みこまれた時には俺の目からぼろぼろと涙がこぼれていた。なぜだろう、泣いている感覚はないのに、涙だけがどんどんあふれ出てきて、一瞬にして俺の視界を大きくゆがませる。ぼやけてよく見えなかったが、それは夢香も同じだったようで、俺の反応を見た彼女は、俺が夢香のことを覚えていたことがよほどうれしかったのか、俺と同じように「ま・こ・と・さんっ」と言い終わった後の表情のまま涙をこぼしていた。夢香は手すりに座るのをやめ、ベランダのわずかな空間に立つ。そして、そのままこちらへ近づき、まもなく俺の体は夢香によって完全に包み込まれ、俺の唇は夢香のものとなった。
久しぶりに見た彼女は、ワールド・インターチェンジで出会った時と同じ服装、すなわち紺のセーターに膝上ぐらいの長さのスカート、その下にタイツを履くスタイルだった。髪はゆるふわロングで、ぽわぽわした感じはあの時と全く同じだった。そして、夢香に抱きしめられているときに感じるこのにおいも俺が夢の世界へ通っていた時と同じで、小学五年のころに夢香と会った時のものともおそらく同じだった。そういえば、俺が知らない間に寝落ちしてしまっていたとかでなければ、俺がたった今見ているのは現実世界のはずだ。夢香たちワールド・インターチェンジで働く人は現実世界に行くこともできると聞いたことがあるが、俺たちが認識できる具現化した形で見ることはできるのだろうか。そんなことを考えているうちに夢香は俺から少しだけ離れ、代わりに手を強く握った。
「急に驚かせてすみません。また……出会っちゃいましたね」
「俺は……どうして今、夢香のことをはっきり認識できるんだ?」
「私が誠さんに「ありがとう」って言った後、視界が遮られるほどの激しい光が見えたと思います。その時に抹消手続きをしていた係の一人が「これは、未練がなくなったときに現れる光だ!」と叫んだんですけどまさにその通りで、私があの時心の底からの感謝の気持ちを誠さんに伝えられたことで、私の幸せが完全に満たされ……つまり、成仏する条件がすべてそろったんです」
俺は、「私はもう、現実世界では生きていない」という衝撃的な事実を突き付けられたあの時の夢香の言葉を思い出しながら聞いていた。夢香は続ける。
「で、抹消手続きは途中で取り消しになって、誠さんが現実世界に戻った後、再度話し合いが行われたんです。そこでワールド・インターチェンジの偉い人が「あなたたち二人の絆は未だかつて見たことのない素晴らしいもので、非常に感動した」とおっしゃったんです。本来は最高法規に違反したことによる罰則は覆らないはずですが、私たちの絆に免じて「抹消」はされないことになりました」
「でも、幸せになる条件がすべて整ったわけだろ?ってことは……」
「はい、私はあのあと、本当ならすぐに成仏のための手続きに入り、今頃誠さんにお会いすることはなかったと思います。でも、その偉い人があまりに強く感動したらしく、「誠さんに何か記念の品を渡してきなさい」ということで、私から誠さんに一度だけ会いに行ける権利をいただいて、会いに行くために必要な世界移動の力も復活させてくれました」
「なるほどね……で、もしかして今夢香の右手にあるものがそれ?」
夢香はこくりとうなずく。そして、それを俺の目の前に差し出す。小さな白い箱を夢香がゆっくりあけると、その中には……指輪が入っていた。夢香はそれを取りだすと同時に俺の左手を取り、薬指にそっと通してくれた。そのサイズはあまりに正確で、装着された直後なのに着けていることを忘れそうに感じた。夢香は顔を赤くしながらも、とても幸せそうな笑顔で俺の手に装着された指輪を眺めていた。夢香が左手を俺の左手の上にかざす。夢香の左手の薬指にも、同じ指輪が着けられていた。これの意味を知っていた俺たちは言葉を交わす必要はなく、ただ見つめ合うだけで思いは十分に伝達できた。
「残念ながら、私はもう成仏のための手続きをしなければなりません」
「そっか。一つだけ聞くけど、俺たちって今、現実世界でこうやって会うことができてるよな。前に、ワールド・インターチェンジで"だけ"つながった人との記憶は成仏で消えるって言ってたけど、俺たちは現実世界でもつながることができたわけだから、少なくともたった今この瞬間の俺たちの記憶は、夢香の成仏によって消えたりはしない?」
「はい。というか、現実世界でつながることができた場合は、夢の中での記憶も残されるようになります。誠さんが私のことを忘れない限り、私たちがこれまで長い時間をかけて作り上げてきた強い絆が消えることは絶対にありません。その指輪も、夜が明けたら消えちゃってた、なんてことはありません。私たちの絆の証しとして、大事にしていてくれたら、うれしいです」
「あぁ、一生大事にするよ。わざわざ届けに来てくれてありがとな」
「いえ。……止めないんですね、私のこと」
「あぁ。だって、夢香は俺と一緒にいることで幸せになれたから成仏できた。それを俺が止めるのは、夢香の不幸を願うことになるだろ?」
「……はいっ。そうだ、私がこれからワールド・インターチェンジに戻る方法はいくつかありますが、できればその……誠さんと一緒に寝ながら戻りたいです」
「要するに、今までワールド・インターチェンジで俺が現実世界に戻るときにやってたことを俺のベッドでやろうというわけか」
夢香はうなずく。それから、まず俺が布団に入り、その横に夢香がもぐりこむ形で、二人でベッドを共有した。あの白い空間に会ったベッドはダブルサイズに匹敵するほどの大きさだったので、二人並んで仰向けになっても窮屈には感じなかったが、俺のベッドはシングルサイズだ。横並びには無理があった。いろいろ試行錯誤した末、仰向けになった俺の上に夢香がうつぶせで覆いかぶさるという形になった。
「誠さん、重たくないですか……?」
「今までにも何度か同じ体勢になったことあるのに、今さら何を言いますか」
「ふふっ」
俺は掛け布団を引き寄せ、俺たちの体の上から覆いかぶせた。それから俺たちが言葉を交わすことはなく、お互いのことを見つめ合うことだけで思いを伝えあった。それぞれの頬に手を沿える。キスをする。もう片方の手でそれぞれの体にふれあい、ごく自然な流れで特別なつながりへと至った。そのようなことを通じて、俺たちは、再び一心同体になれたような気がした。布団の中からは、俺たちが生み出したものとは思えないような熱気が漂う。次第に二人の息が荒くなってくる。「んぅ……」という、夢香が発しているであろう小さな甘い声も聞こえる。暗闇で細かい表情まではとらえることはできないが、おそらく俺も夢香も、ただ思いを伝えあっているだけなのに火照ったように顔を真っ赤にしていたと思う。そのうち意識がだんだん遠のいていく。
気が付いた時には空が少しずつ明るくなり始めていた。夢香はもうそこにはいなかったが、まだ少し布団の中に残っていた熱気と夢の中での最後の夜に「した」あとに感じたのと同じけだるさ、左手の薬指に残っていた指輪が、昨夜の出来事のすべてを物語っていた。とりあえず指輪に関しては、薬指につけたままだといろいろ誤解を招きかねないので、たまたま実家から持ってきていた首提げタイプのストラップに取り付け、これを常に首から提げることにした。
「やあ坊っちゃん、卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
「あ!誠くんもやっぱり来たのね?」
「もちろんだよ」
マスターは、一応俺たちの高校の卒業式の存在は知っていたようで、俺に対して祝福の言葉をかけてくれた。あるいは優がマスターに教えたのかもしれないが。
「誠くんは県外の大学?」
「あぁ。優も?」
「うん。だから、今日でここに通うのも終わりだな、って思って」
「そうだな。定期的に通えるのは今日が最後だな。まぁ、休暇中とかは実家に戻ってくるから、来れないこともないけど」
「だね。私も夏休みや冬休みはこっちに戻ってくるつもりだから、その時は時間合わせて来ようね」
「そっか~、二人とも会う機会減ってしまうのか~。なら、その分二人がまた来た時はごちそうでも作っておかないとな~」
俺たちは微笑みを返す。それからは、いつものように三人で夕方近くまで雑談を楽しんだ。今日はさすがに宿題はないが、学校を出る前に卒業アルバムをもらったので、これでいくぶん話が盛り上がった。マスターも、自らの高校時代の思い出をたくさん話してくれた。その多くは、以前一回以上聞いたことがある内容だったが。
「「ごちそうさまでした。そして、今までありがとうございました」」
「なーに今日でもう二度と会えない雰囲気出してるのさ。また休暇中でもいつでも、暇なときに遊びに来たらいいさ~」
俺たちは喫茶店を出る。春が近いというのにまだ空気は冷たくて、びゅうっと吹いた風に思わず身をこわばらせる。
「じゃあ、また会える時まで」
「うん。といっても、メールとかがあるし、連絡自体はいつでも取れるよね」
「まぁな。休暇前になったら、いつごろここに来れそうか連絡するよ」
「うん!じゃあ、またね!」
優は再び学校に戻るというので、今日は喫茶店の前で解散となった。俺は、あんないろいろなことがあった学校には出来るだけ近づきたくないという思いがあったので、さっさと帰宅することにした。
あの日、まばゆい光や混沌とした感覚に翻弄されてからどうなったかと言うと、俺はいつものように目をさまし、いつものように学校へ行き、普通に勉強に励み、とにかく普通の毎日を過ごした。そして、学力も普通ぐらい身について、第一志望の大学に無事合格した。先ほどの会話の通り、県外の大学を受験し、合格したので、この春から俺は下宿を始めることとなった。準備は忙しいが、初めてのことばかりで、今は不安よりも期待のほうが大きい。何より、あんな思いをした高校をようやく卒業し、晴れて大学生となれるわけだ。新生活がどのようなものになるのかと、胸を膨らませる。
あれから俺は一度もワールド・インターチェンジに関する夢を見なくなった。どうやら、夢香は本当に存在を抹消され、少なくともワールド・インターチェンジの世界からはいなくなった。わかってはいたことだが、夢を見なくなったことによってそれがよりはっきりした現実として俺の前に立ちはだかった。実は今でも時々、「なんかの間違いで夢で会えないかな」などと少しばかり期待する自分がいる。わかってるよ、いないことぐらい。でも、こうやって過去をいつまでも引きずるのは、あの時最高の契約を結んだ夢香に対して失礼なのではないかとも考え、思いが暴走するのを抑えている。ふと、存在が抹消されたはずなのに俺の夢香に関する記憶がすべて思い出せることに気付く。
大学の入学式を前日に迎えた日、俺はこれからの新生活を送る下宿先に先に荷物を運び入れ、一足早く一人暮らしを始めていた。朝からの荷物の搬入とそれらの整理整頓、配置がようやく終わったころにはもう夜だった。いつもなら寝るには少し早い時間だったが、今日は一日中働きっぱなしで疲れたし、明日は入学式だ。大学生活一日目で遅刻するわけにはいかないので、大事を取ってもう寝ることにした。部屋の電気を消すと、実家に住んでいた時とはまた違う外のあかりが部屋をほんのり照らしていた。「はぁ、いよいよ新生活が始まるのか……」などと思いながら、なんとなくの気分でベランダからの夜景を眺めてみたくなり、窓を開けてみた。今まで見たことのない街のあかりがこの一帯をわずかに明るくしていた。実家の自分の部屋から見た夜景は、遠くに工場のあかりが二~三個あるだけでほぼ真っ暗だったので、それだけでこの下宿先が「都会」であることを感じさせられた。もっとも、この閑静な住宅街のすぐ近くを走る道路を進めば市街地に容易に出ることができるのだが。
「ま・こ・と・さんっ」
いつか、どこかで聞いたことあるその声に、先ほどまでのぼんやりした思いが中断させられる。ベランダの右のほうの手すりに目を向ける。そこには、家のすぐ前にある街灯によってわずかに照らされた……夢香が座っていた。
「……っ!」
俺は何か物事を考えるよりも感情が先走り、ワールド・インターチェンジに呼び出されなくなってから今まで心の奥底で眠っていた思いが一気に大きな波となって押し寄せ、あらがう間もなくそれに飲みこまれた時には俺の目からぼろぼろと涙がこぼれていた。なぜだろう、泣いている感覚はないのに、涙だけがどんどんあふれ出てきて、一瞬にして俺の視界を大きくゆがませる。ぼやけてよく見えなかったが、それは夢香も同じだったようで、俺の反応を見た彼女は、俺が夢香のことを覚えていたことがよほどうれしかったのか、俺と同じように「ま・こ・と・さんっ」と言い終わった後の表情のまま涙をこぼしていた。夢香は手すりに座るのをやめ、ベランダのわずかな空間に立つ。そして、そのままこちらへ近づき、まもなく俺の体は夢香によって完全に包み込まれ、俺の唇は夢香のものとなった。
久しぶりに見た彼女は、ワールド・インターチェンジで出会った時と同じ服装、すなわち紺のセーターに膝上ぐらいの長さのスカート、その下にタイツを履くスタイルだった。髪はゆるふわロングで、ぽわぽわした感じはあの時と全く同じだった。そして、夢香に抱きしめられているときに感じるこのにおいも俺が夢の世界へ通っていた時と同じで、小学五年のころに夢香と会った時のものともおそらく同じだった。そういえば、俺が知らない間に寝落ちしてしまっていたとかでなければ、俺がたった今見ているのは現実世界のはずだ。夢香たちワールド・インターチェンジで働く人は現実世界に行くこともできると聞いたことがあるが、俺たちが認識できる具現化した形で見ることはできるのだろうか。そんなことを考えているうちに夢香は俺から少しだけ離れ、代わりに手を強く握った。
「急に驚かせてすみません。また……出会っちゃいましたね」
「俺は……どうして今、夢香のことをはっきり認識できるんだ?」
「私が誠さんに「ありがとう」って言った後、視界が遮られるほどの激しい光が見えたと思います。その時に抹消手続きをしていた係の一人が「これは、未練がなくなったときに現れる光だ!」と叫んだんですけどまさにその通りで、私があの時心の底からの感謝の気持ちを誠さんに伝えられたことで、私の幸せが完全に満たされ……つまり、成仏する条件がすべてそろったんです」
俺は、「私はもう、現実世界では生きていない」という衝撃的な事実を突き付けられたあの時の夢香の言葉を思い出しながら聞いていた。夢香は続ける。
「で、抹消手続きは途中で取り消しになって、誠さんが現実世界に戻った後、再度話し合いが行われたんです。そこでワールド・インターチェンジの偉い人が「あなたたち二人の絆は未だかつて見たことのない素晴らしいもので、非常に感動した」とおっしゃったんです。本来は最高法規に違反したことによる罰則は覆らないはずですが、私たちの絆に免じて「抹消」はされないことになりました」
「でも、幸せになる条件がすべて整ったわけだろ?ってことは……」
「はい、私はあのあと、本当ならすぐに成仏のための手続きに入り、今頃誠さんにお会いすることはなかったと思います。でも、その偉い人があまりに強く感動したらしく、「誠さんに何か記念の品を渡してきなさい」ということで、私から誠さんに一度だけ会いに行ける権利をいただいて、会いに行くために必要な世界移動の力も復活させてくれました」
「なるほどね……で、もしかして今夢香の右手にあるものがそれ?」
夢香はこくりとうなずく。そして、それを俺の目の前に差し出す。小さな白い箱を夢香がゆっくりあけると、その中には……指輪が入っていた。夢香はそれを取りだすと同時に俺の左手を取り、薬指にそっと通してくれた。そのサイズはあまりに正確で、装着された直後なのに着けていることを忘れそうに感じた。夢香は顔を赤くしながらも、とても幸せそうな笑顔で俺の手に装着された指輪を眺めていた。夢香が左手を俺の左手の上にかざす。夢香の左手の薬指にも、同じ指輪が着けられていた。これの意味を知っていた俺たちは言葉を交わす必要はなく、ただ見つめ合うだけで思いは十分に伝達できた。
「残念ながら、私はもう成仏のための手続きをしなければなりません」
「そっか。一つだけ聞くけど、俺たちって今、現実世界でこうやって会うことができてるよな。前に、ワールド・インターチェンジで"だけ"つながった人との記憶は成仏で消えるって言ってたけど、俺たちは現実世界でもつながることができたわけだから、少なくともたった今この瞬間の俺たちの記憶は、夢香の成仏によって消えたりはしない?」
「はい。というか、現実世界でつながることができた場合は、夢の中での記憶も残されるようになります。誠さんが私のことを忘れない限り、私たちがこれまで長い時間をかけて作り上げてきた強い絆が消えることは絶対にありません。その指輪も、夜が明けたら消えちゃってた、なんてことはありません。私たちの絆の証しとして、大事にしていてくれたら、うれしいです」
「あぁ、一生大事にするよ。わざわざ届けに来てくれてありがとな」
「いえ。……止めないんですね、私のこと」
「あぁ。だって、夢香は俺と一緒にいることで幸せになれたから成仏できた。それを俺が止めるのは、夢香の不幸を願うことになるだろ?」
「……はいっ。そうだ、私がこれからワールド・インターチェンジに戻る方法はいくつかありますが、できればその……誠さんと一緒に寝ながら戻りたいです」
「要するに、今までワールド・インターチェンジで俺が現実世界に戻るときにやってたことを俺のベッドでやろうというわけか」
夢香はうなずく。それから、まず俺が布団に入り、その横に夢香がもぐりこむ形で、二人でベッドを共有した。あの白い空間に会ったベッドはダブルサイズに匹敵するほどの大きさだったので、二人並んで仰向けになっても窮屈には感じなかったが、俺のベッドはシングルサイズだ。横並びには無理があった。いろいろ試行錯誤した末、仰向けになった俺の上に夢香がうつぶせで覆いかぶさるという形になった。
「誠さん、重たくないですか……?」
「今までにも何度か同じ体勢になったことあるのに、今さら何を言いますか」
「ふふっ」
俺は掛け布団を引き寄せ、俺たちの体の上から覆いかぶせた。それから俺たちが言葉を交わすことはなく、お互いのことを見つめ合うことだけで思いを伝えあった。それぞれの頬に手を沿える。キスをする。もう片方の手でそれぞれの体にふれあい、ごく自然な流れで特別なつながりへと至った。そのようなことを通じて、俺たちは、再び一心同体になれたような気がした。布団の中からは、俺たちが生み出したものとは思えないような熱気が漂う。次第に二人の息が荒くなってくる。「んぅ……」という、夢香が発しているであろう小さな甘い声も聞こえる。暗闇で細かい表情まではとらえることはできないが、おそらく俺も夢香も、ただ思いを伝えあっているだけなのに火照ったように顔を真っ赤にしていたと思う。そのうち意識がだんだん遠のいていく。
気が付いた時には空が少しずつ明るくなり始めていた。夢香はもうそこにはいなかったが、まだ少し布団の中に残っていた熱気と夢の中での最後の夜に「した」あとに感じたのと同じけだるさ、左手の薬指に残っていた指輪が、昨夜の出来事のすべてを物語っていた。とりあえず指輪に関しては、薬指につけたままだといろいろ誤解を招きかねないので、たまたま実家から持ってきていた首提げタイプのストラップに取り付け、これを常に首から提げることにした。