俺たちは「せーの!」の掛け声で、同時にそれぞれのアルバムの一ページ目をめくった。
「……」
俺はその瞬間目に飛び込んできたそれを見て、瞬間的に感情が高まり、涙を流すことを余儀なくされた。俺のアルバムの一ページ目、寝る前に確認した時には俺しか写っていなかったその写真は、夢香とのツーショット写真に変化していた。写真の中の俺は、別れを惜しみつつも最後まで夢香に心配をかけたくないとの思いで必死の笑顔を見せていた。夢香は俺との別れに加え、一生消えない傷を負わせてしまった相手とのツーショットが申し訳なく感じるのか、笑顔でありながらも少し浮かない表情だった。
「びっくり、しましたか?これが、私が誠さんを世界移動させた結果です。私は誠さんを、私の存在がなかったことになっている世界へ移動させました。ですから、アルバムの中からも私は消えていたわけです。もちろん、ここは世界の移動が関係ない場所ですから、誠さんはこのアルバムの本来の姿……つまり、私が写っているアルバムを見ることができたわけです」
「え?それは、どういうこと?」
「実を言いますと、誠さんは一度、ご家族から私の訃報を聞いているんです。というか、私たちは実は一年前に今と同じ形で会っているんです」
「え……そうなのか?ごめん、覚えていない」
「それもそのはずです。その理由を教えます。私が世界移動の技術を身に着けて間もないころ、つまり私が死んでしばらくたったころ、誠さんは私が死んだショックで自殺しようとしていました。でも、私は誠さんには私の分も生きてほしいと思っていました。だから、世界移動の練習もかねて、誠さんをこの世界に呼び出し、竜野夢香という存在が限りなくゼロに近い世界に移動させたのです。実は、私が初めて世界を移動させたのは、誠さんだったんですよ」
それは俺が知らなかった、というか、夢香によって消し去られていた、俺の本当の過去だった。俺は続けて質問する。
「じゃあ、夢香はどうして俺のことを忘れていたんだ?」
「今、私が言った言葉を思い出してみてください。私は誠さんを、「私の存在が限りなくゼロに近い」世界に移動させた、と言いました。そのことにより、誠さんはおろか、誠さんの家族、さらには私の家族まで、私自身の存在をほぼ忘れてしまいました。そして、その反動のようなもので、私自身も家族や友人、誠さんについての記憶があいまいになってしまったんです。もしあのとき、「誠さんだけが私のことを忘れている」世界に移動させていれば、少なくとも私は誠さんのことを覚えていたかもしれませんし、それによって誠さんももっと早く記憶を取り戻せていたかもしれません」
「……本当に申し訳ないけど、今ここにいる夢香があの時の夢香だって気付くまで、夢香の存在を完全に忘れてしまってた」
「いいんですよ。これは私があえてそうなるように仕向けたものですから、忘れて当然です。むしろ、あの時自発的にお互いの存在を思い出すことができたのはほとんど奇跡に近いことですよ」
「そっか、でも、もう、いないんだ。もう、死んじゃったんだ……俺、学校生活がすごく忙しかったし、親からもそういうことを全然聞かなかったから、今でもどこかで元気に過ごしているんだろうな、って思ってた」
「何言ってるんですか。私は今、ここにいて、こうやって誠さんとお話してるじゃないですか」
「でも、俺の目の前にいる夢香は、言ってみれば仮の姿で、未練を晴らしたらいなくなっちゃう。そしたら俺……何を励みに生きていけばいいっていうんだよ。極端な言い方だけど、俺……夢香がいないと死んじゃうよ……」
俺はこの感情をどうにもコントロールすることができず、ほとんど無意識的に泣いてしまう。それを夢香がすぐに抱きしめてくれた。
「大丈夫ですよ。私の未練が晴れない限り、消えてしまうことはありません。私は今、できることなら一生、こうやって誠さんと夢の世界でお会いしたいと思っています。だから、大丈夫なんです……だから、泣かないでください……わ、私だって、誠さんがいないと、成仏できませんよぉ……」
なぜか、夢香までもが泣き出し、俺の首筋に感情の雫を落としていった。きっとその源は同じだと思う。
「夢香が泣いてどうするんだよ……」
そのうちお互いの感情が複雑に絡み合い、よく分からないことになって、むずむずした感覚になった結果、いつものように二人同時にくすくすと笑い始めてしまう。
「でも、あの時誠さんを世界移動させて、よかったと思ってます。だって、今の誠さんの様子を見ていただけでも、私の死をすごく悲しんでいることが見てとれます。たった今でさえ、私がいないと死んじゃうって言うぐらいですから、これが一年前だったら、本当に自殺していたかもしれないと思うと、私、誠さんの幸せに少しでも貢献できたのかな、って、ちょっとだけ胸を張ることができます」
「あぁ、そうだな。まぁ学校ではいろいろあったけど、俺が今生きていなかったら、こういう形で俺たちが再会することなんてなかったかもしれないもんな。奇跡というか、運命、だな」
「運命……ですねっ」
運命、という言葉が妙に気に入ったのか、夢香はその言葉を何度か口にしながらとろけるような笑顔を見せ、その幸せに入り浸っていた。まもなく夜が明けてきた。
アルバムの見せ合いによって俺たちが本当に昔の幼馴染だったという事実がほぼ断定されてからというもの、俺たちはほとんど毎晩、今まで会えなかった分たくさんお話をして、たくさん遊んで、たくさんの楽しい、そして幸せな時間を過ごした。人生でこんなにも生きることが楽しいと思えたのは、いったい何年ぶりだろう。夢香にワールド・インターチェンジで会えるまでは生きているのがばかばかしく思えるほどにつらく、苦しい毎日であったのに、それがわずか数か月前の出来事であることが信じられない。
しかし、残念ながら、というか、予想通り、というか、あるいはどうしても、とでも言おうか。この世界はすべてがとんとん拍子でうまくいくことはなかった。それは、たとえ俺がいくつもの世界を移動しても同じで、どの世界においても不変の真実であった。すべての人間が平等であるためには、神様は人間に幸と不幸の両方をうまい具合に与えなければならなかった。そして俺は今、後者をいやおうなしに受け止めなければならなかった。
それは俺がいつものようにわくわくしながら眠りにつき、いつものように「夢香と楽しいひとときを過ごすぞ」などと気分をほくほくさせながら白い空間で目を覚ました時だった。いつもならにこにこ、ぽわぽわした笑顔で俺を迎え入れてくれる夢香の顔がとてつもなくキリッと引き締まっていた。というか、目の前にいたのは明らかに夢香ではなかった。その女性はスーツを着ていて、金属ふちのメガネをかけている。ぱっと見た感じ、俺の母親より少し若いぐらいだろうか。俺が寝ボケ眼でその人を見たとき、メガネを指でくいっと整えて言った。
「突然失礼いたします。私はワールド・インターチェンジの上層部の者です。あなたが、竜野夢香さんと仲良くしていた姫路誠さん、ですね?」
あまりにクールな声だったため、俺は急に背筋がかたくなり、飛び起きて正座までしてしまった。裏返りそうな声で「はい!」と答える。
「そんなにかしこまらなくていいですよ。私はこんな見た目ですからよく怖がられるんですけど、これが原因で人に避けられるのはちょっと残念に思います。気を楽にしていいですよ」
「は、はぁ……」
とりあえず、怖い人ではないことはなんとなくわかった。まぁ、仮面をかぶっていて、実は本当に怖いキャラだった、という可能性も否定はできないが。女性は続ける。
「今回は竜野夢香さんとのご関係と彼女の今後についてお話したいと思います。実はこのワールド・インターチェンジで働いている人々の様子は、世界を移動してもらう人のプライバシーに十分注意したうえで常に監視しています。もちろん、あなたたちの毎晩の様子もずっとこちらで監視していました。その結果、彼女は昨日、本来は一人の人間を世界移動させるところを職務放棄し、あなたとお会いしていたのです。竜野夢香さんからすでに説明はあったかとは思いますが、この世界は人間を少しでも幸せにできる、いわば「魔法の場所」です。しかしその一方で、人を不幸に陥れることもできる、いわば「地獄」でもあります。この両極端の側面を持つワールド・インターチェンジをできる限り安定的に運用するために、とりわけ平等性については現実世界よりも厳しく定めています。しかし、残念ながら竜野夢香さんはあなたとの幸せな時間を優先し、この規定を破ったと。幸い他の人に空きがあったので、竜野夢香さんが移動させる予定だった人は他の人が移動させましたが、一歩間違えればこの人を不幸にしかねない、大変危険な行為であったと言えます」
「なるほど。夢香がやったことはわかりました。それで、夢香はどうなるんですか?」
「私たちはこの「平等性」を何よりも優先的に守るよう、ここで働く人に指導し、監視を続けてきました。現実世界で言うところの「憲法」、すなわち最高法規です。しかし竜野夢香さんはそれを破ったということで、私たちはワールド・インターチェンジで決められている最も重い処罰を下さなければなりません」
「それは……なんですか」
思わず息をのむ。
「竜野夢香さんは成仏させず、ただちに消えてもらいます」
「ちょっど待ってください!!」
消えてもらう、という言葉に反応した俺は、完全な無意識でこの言葉を叫んでいた。そのあとも、ほとんど意識することなく言葉が出てきた。
「たった一回決まり事を破ったからって、それはおかしいだろ!たしかに現実世界で法律とか破ったら一発でアウトだけどさ、それでも軽い法律違反の一回目から無期懲役とかはありえないだろ!情状酌量ってものもあるだろ……それに、夢香が大事な決まり事を破ったのは、彼女を幸せにした俺にも責任がある。取れるのなら俺にも責任を取らせてくれ。とにかく彼女にだけ責任押し付けるのはやめてくれ!」
俺は感情の赴くままに、思いのたけを女性にぶつけていた。涙でほとんど視界はぼやけてしまっていた。
「あいつ……前にも一回、ある人の恨みで存在を消されそうになったことがあるんだよ。俺、その時あいつに対して何もできなくて……今回も夢香に何もしてあげられずに存在を消されると思うと……こんなクズ人間の俺なんか死んだ方がよっぽどましだよ!!うわあああああーーー!!」
もう泣き声とも叫び声とも区別がつかないようなめちゃくちゃな泣き方をしていた。この前、夢香の目の前で「夢香がいないと死んでしまう」と宣言してから、夢香のことが本当にいとおしく思えて、何もしなくても夢香が消えた瞬間、自動的に自分の心臓も止まるのではないかと考えもした。この決定が覆らないのであれば、いっそのこと夜が明けた後すぐに自らの命を絶とうと、遺書の内容を少しばかり考え始めた。
「……はぁ。あなたって人は」
女性は大きくため息をつき、こめかみをつまみながら下を向き、しばらく右往左往したのち、話し始めた。
「実は、今回は何もかもが初めてなんです。ワールド・インターチェンジで働いている人が「平等性」に違反することも、「存在を抹消する」という処罰を下すことも、私がこうやって働いている人の部屋にお邪魔するのも、そして……そこで現実で生きている人に出会うことも、その人がここで働いている人ととてつもなく強い関係で結ばれていることも、その人が泣きわめきながら必死に減刑を望むことも……」
女性は堅苦しい顔を少しだけ柔らかくし、軽く微笑んだ。
「残念ながら彼女の存在を消す決定をあなたが覆すことはできません。しかし、一日分だけ二人に猶予期間を設けます。この日には彼女には世界移動のシフトは入れません。二人で一晩かけてじっくりと話し合い、竜野夢香さんの存在が消えてしまうことをお互いに認め合ってください。次の日の夜が明ける前、竜野夢香さんの存在を消す手続きを行います。あなたが寝るときに「手続きに立ち会いたい」と願えば、その様子を見ることもできます」
「存在を消す、という決定は、どうしても取り消せませんか?」
「どうしてもできません。ワールド・インターチェンジのこの空間も、実は世界の一つであり、独自の世界の動き方をしています。ただ、人間が日常生活を送っている世界は他の世界に干渉することができませんが、ワールド・インターチェンジのこの空間だけは、全ての世界に対して手を加えることのできる権限があります。パソコンのユーザーアカウントで例えますと、私たちはアドミニストレータ、あなた方は一般ユーザーです。少し厳しいことを言いますと、一般ユーザーが管理者権限の作業を行うことはできない、すなわちあなた方が私たちの世界に介入しないでほしいのです。ただ……」
「ただ?」
「あなたは、アドミニストレータの一人である竜野夢香さんからパスワードを渡されたようなものです。一般ユーザーでも管理者パスワードがあれば管理者権限で作業が行えるように、あなたの自由な意思でこの世界に介入することはできませんが、竜野夢香さんの、正確には竜野夢香さんが所属しているこの場所の上層部である私たちの許可があれば、ある程度はあなたも私たちの世界に介入できます。猶予期間を設けられたのも、そのためだと思ってください」
「ところで、夢香は今、どこで何をしているんですか?」
「竜野夢香さんは今、私たちの事務所で事情聴取を受けているはずです。ところで、猶予期間の一日はいつにしますか?明日でもいいですし、一か月後でもいいのですが、シフトの調整があるので、うかがっておきます」
俺の答えに、迷いはなかった。
「明日で、お願いします」
俺は、夢香が消えてしまうという現実を、受け入れなければならなかった。それは、現実世界で言うところの、人の死を受け入れることと同じなのかもしれない。実際に誰か知り合いが亡くなったという現実に直面したことがないから実感はわかないが、おそらく俺は、その人が大事な人であればあるほど泣きわめき、その現実に向き合うことすらできず、それこそ自分もその人の後を追いかけていたかもしれない。
ふと、自分は人の死の場面に直面したことがあったことを思い出した。夢香だ。そう、夢香の話によれば、俺は夢香の死後、あまりの悲しさに後を追いかけようとしていた。その状況を、ワールド・インターチェンジで働き始めて間もない夢香が救い出し、俺を夢香に関する記憶が存在しない、夢香に関する悲しみが存在しなかった世界に移動した。夢香が死んだ直後、俺はどんなことを思っていたのだろう。やはり、先ほどの俺のように感情のままに泣き叫んでいたのだろうか。夢香についての記憶が取り戻せたとはいえ、ここが夢香に関するあらゆる記憶が消去されたままの世界であることに変わりはなく、夢香の死後の俺の記憶は全くと言っていいほど思い出せない。
俺は、最後の一日は早ければ早いほどお互いにとって良いものになると考えた。たしかに最後の一日を後に回せば回すほど、夢香のことを思っていられる時間は延びる。しかし、長いブランクを置いて再会した時、果たして前回あったときと全く同じテンションで出会うことができるであろうか。俺は、その答えはノーだと思った。ちょっとけんかするだけで気まずくなる俺たちだ。意図的にブランクを置いてしまっては、最後の一日であるにも関わらず気まずい雰囲気のまま過ごすことになり、それだけで時間の無駄になってしまう。今の俺たちなら、前回まではぐくんできた絆そのままの気持ちで接することができる。たとえ「夢香が消えてしまう」と知った今であっても、夢香ときちんと向き合い、すぐにお互いを受け入れられると、確信していた。そうすれば、最後の一日をより有効に使える。俺は、少しでも夢香と長くふれあっていられるように、ひいては夢香のために、明日を最後の一日にすることを選択した。
「わかりました。それではその方向で調整しておきます。今日は突然驚かせてしまってすみませんでした。それでは明日、竜野夢香さんと幸せなひとときをお過ごしください」
それだけ言って、女性はこの部屋の奥の方へ歩いて行き、いなくなってしまった。もしかして入れ替わりで夢香が来るんじゃないか、とも思ったが、しばらく待ってみても人が現れる気配はしなかったので、今日はもう元の世界に戻ることにした。
改めてベッドを眺める。あちこちに付着している夢香の血は、ほとんど茶色がかっていて、シーツの柄だと言っても不自然に感じないほどになっていた。そういえば、最近の夢香は苦しんだり血を吐いたりしなかったな、と、ふと思い出した。俺しかいないこの空間はとても静かで、空虚だった。俺たちの会話の音、ベッドのきしむ音、服がこすれ合う音、荒い鼻息の音、唇が触れ合う音、舌が絡み合う音、笑い声、泣き声、うめき声……などと思えば、この部屋に音が満ち溢れていたのは夢香と一緒にいられたからなのだと感じた。ベッドのそばには、ビリビリに破かれた夢香の服の一部が残っていた。それを手に取る。布地からして、セーターの下に着ているブラウスだろうか。十センチ四方ぐらいの大きさのそれを眺めながら、ほんの出来心で、
「下心はないからな。普段は絶対できない、絆の表現方法の一つ、だからな」
と、心の中でつぶやいておいてから、夢香のことをただ一心に考え、その布に向かってとある「作業」を行い、眠りについた。
「……」
俺はその瞬間目に飛び込んできたそれを見て、瞬間的に感情が高まり、涙を流すことを余儀なくされた。俺のアルバムの一ページ目、寝る前に確認した時には俺しか写っていなかったその写真は、夢香とのツーショット写真に変化していた。写真の中の俺は、別れを惜しみつつも最後まで夢香に心配をかけたくないとの思いで必死の笑顔を見せていた。夢香は俺との別れに加え、一生消えない傷を負わせてしまった相手とのツーショットが申し訳なく感じるのか、笑顔でありながらも少し浮かない表情だった。
「びっくり、しましたか?これが、私が誠さんを世界移動させた結果です。私は誠さんを、私の存在がなかったことになっている世界へ移動させました。ですから、アルバムの中からも私は消えていたわけです。もちろん、ここは世界の移動が関係ない場所ですから、誠さんはこのアルバムの本来の姿……つまり、私が写っているアルバムを見ることができたわけです」
「え?それは、どういうこと?」
「実を言いますと、誠さんは一度、ご家族から私の訃報を聞いているんです。というか、私たちは実は一年前に今と同じ形で会っているんです」
「え……そうなのか?ごめん、覚えていない」
「それもそのはずです。その理由を教えます。私が世界移動の技術を身に着けて間もないころ、つまり私が死んでしばらくたったころ、誠さんは私が死んだショックで自殺しようとしていました。でも、私は誠さんには私の分も生きてほしいと思っていました。だから、世界移動の練習もかねて、誠さんをこの世界に呼び出し、竜野夢香という存在が限りなくゼロに近い世界に移動させたのです。実は、私が初めて世界を移動させたのは、誠さんだったんですよ」
それは俺が知らなかった、というか、夢香によって消し去られていた、俺の本当の過去だった。俺は続けて質問する。
「じゃあ、夢香はどうして俺のことを忘れていたんだ?」
「今、私が言った言葉を思い出してみてください。私は誠さんを、「私の存在が限りなくゼロに近い」世界に移動させた、と言いました。そのことにより、誠さんはおろか、誠さんの家族、さらには私の家族まで、私自身の存在をほぼ忘れてしまいました。そして、その反動のようなもので、私自身も家族や友人、誠さんについての記憶があいまいになってしまったんです。もしあのとき、「誠さんだけが私のことを忘れている」世界に移動させていれば、少なくとも私は誠さんのことを覚えていたかもしれませんし、それによって誠さんももっと早く記憶を取り戻せていたかもしれません」
「……本当に申し訳ないけど、今ここにいる夢香があの時の夢香だって気付くまで、夢香の存在を完全に忘れてしまってた」
「いいんですよ。これは私があえてそうなるように仕向けたものですから、忘れて当然です。むしろ、あの時自発的にお互いの存在を思い出すことができたのはほとんど奇跡に近いことですよ」
「そっか、でも、もう、いないんだ。もう、死んじゃったんだ……俺、学校生活がすごく忙しかったし、親からもそういうことを全然聞かなかったから、今でもどこかで元気に過ごしているんだろうな、って思ってた」
「何言ってるんですか。私は今、ここにいて、こうやって誠さんとお話してるじゃないですか」
「でも、俺の目の前にいる夢香は、言ってみれば仮の姿で、未練を晴らしたらいなくなっちゃう。そしたら俺……何を励みに生きていけばいいっていうんだよ。極端な言い方だけど、俺……夢香がいないと死んじゃうよ……」
俺はこの感情をどうにもコントロールすることができず、ほとんど無意識的に泣いてしまう。それを夢香がすぐに抱きしめてくれた。
「大丈夫ですよ。私の未練が晴れない限り、消えてしまうことはありません。私は今、できることなら一生、こうやって誠さんと夢の世界でお会いしたいと思っています。だから、大丈夫なんです……だから、泣かないでください……わ、私だって、誠さんがいないと、成仏できませんよぉ……」
なぜか、夢香までもが泣き出し、俺の首筋に感情の雫を落としていった。きっとその源は同じだと思う。
「夢香が泣いてどうするんだよ……」
そのうちお互いの感情が複雑に絡み合い、よく分からないことになって、むずむずした感覚になった結果、いつものように二人同時にくすくすと笑い始めてしまう。
「でも、あの時誠さんを世界移動させて、よかったと思ってます。だって、今の誠さんの様子を見ていただけでも、私の死をすごく悲しんでいることが見てとれます。たった今でさえ、私がいないと死んじゃうって言うぐらいですから、これが一年前だったら、本当に自殺していたかもしれないと思うと、私、誠さんの幸せに少しでも貢献できたのかな、って、ちょっとだけ胸を張ることができます」
「あぁ、そうだな。まぁ学校ではいろいろあったけど、俺が今生きていなかったら、こういう形で俺たちが再会することなんてなかったかもしれないもんな。奇跡というか、運命、だな」
「運命……ですねっ」
運命、という言葉が妙に気に入ったのか、夢香はその言葉を何度か口にしながらとろけるような笑顔を見せ、その幸せに入り浸っていた。まもなく夜が明けてきた。
アルバムの見せ合いによって俺たちが本当に昔の幼馴染だったという事実がほぼ断定されてからというもの、俺たちはほとんど毎晩、今まで会えなかった分たくさんお話をして、たくさん遊んで、たくさんの楽しい、そして幸せな時間を過ごした。人生でこんなにも生きることが楽しいと思えたのは、いったい何年ぶりだろう。夢香にワールド・インターチェンジで会えるまでは生きているのがばかばかしく思えるほどにつらく、苦しい毎日であったのに、それがわずか数か月前の出来事であることが信じられない。
しかし、残念ながら、というか、予想通り、というか、あるいはどうしても、とでも言おうか。この世界はすべてがとんとん拍子でうまくいくことはなかった。それは、たとえ俺がいくつもの世界を移動しても同じで、どの世界においても不変の真実であった。すべての人間が平等であるためには、神様は人間に幸と不幸の両方をうまい具合に与えなければならなかった。そして俺は今、後者をいやおうなしに受け止めなければならなかった。
それは俺がいつものようにわくわくしながら眠りにつき、いつものように「夢香と楽しいひとときを過ごすぞ」などと気分をほくほくさせながら白い空間で目を覚ました時だった。いつもならにこにこ、ぽわぽわした笑顔で俺を迎え入れてくれる夢香の顔がとてつもなくキリッと引き締まっていた。というか、目の前にいたのは明らかに夢香ではなかった。その女性はスーツを着ていて、金属ふちのメガネをかけている。ぱっと見た感じ、俺の母親より少し若いぐらいだろうか。俺が寝ボケ眼でその人を見たとき、メガネを指でくいっと整えて言った。
「突然失礼いたします。私はワールド・インターチェンジの上層部の者です。あなたが、竜野夢香さんと仲良くしていた姫路誠さん、ですね?」
あまりにクールな声だったため、俺は急に背筋がかたくなり、飛び起きて正座までしてしまった。裏返りそうな声で「はい!」と答える。
「そんなにかしこまらなくていいですよ。私はこんな見た目ですからよく怖がられるんですけど、これが原因で人に避けられるのはちょっと残念に思います。気を楽にしていいですよ」
「は、はぁ……」
とりあえず、怖い人ではないことはなんとなくわかった。まぁ、仮面をかぶっていて、実は本当に怖いキャラだった、という可能性も否定はできないが。女性は続ける。
「今回は竜野夢香さんとのご関係と彼女の今後についてお話したいと思います。実はこのワールド・インターチェンジで働いている人々の様子は、世界を移動してもらう人のプライバシーに十分注意したうえで常に監視しています。もちろん、あなたたちの毎晩の様子もずっとこちらで監視していました。その結果、彼女は昨日、本来は一人の人間を世界移動させるところを職務放棄し、あなたとお会いしていたのです。竜野夢香さんからすでに説明はあったかとは思いますが、この世界は人間を少しでも幸せにできる、いわば「魔法の場所」です。しかしその一方で、人を不幸に陥れることもできる、いわば「地獄」でもあります。この両極端の側面を持つワールド・インターチェンジをできる限り安定的に運用するために、とりわけ平等性については現実世界よりも厳しく定めています。しかし、残念ながら竜野夢香さんはあなたとの幸せな時間を優先し、この規定を破ったと。幸い他の人に空きがあったので、竜野夢香さんが移動させる予定だった人は他の人が移動させましたが、一歩間違えればこの人を不幸にしかねない、大変危険な行為であったと言えます」
「なるほど。夢香がやったことはわかりました。それで、夢香はどうなるんですか?」
「私たちはこの「平等性」を何よりも優先的に守るよう、ここで働く人に指導し、監視を続けてきました。現実世界で言うところの「憲法」、すなわち最高法規です。しかし竜野夢香さんはそれを破ったということで、私たちはワールド・インターチェンジで決められている最も重い処罰を下さなければなりません」
「それは……なんですか」
思わず息をのむ。
「竜野夢香さんは成仏させず、ただちに消えてもらいます」
「ちょっど待ってください!!」
消えてもらう、という言葉に反応した俺は、完全な無意識でこの言葉を叫んでいた。そのあとも、ほとんど意識することなく言葉が出てきた。
「たった一回決まり事を破ったからって、それはおかしいだろ!たしかに現実世界で法律とか破ったら一発でアウトだけどさ、それでも軽い法律違反の一回目から無期懲役とかはありえないだろ!情状酌量ってものもあるだろ……それに、夢香が大事な決まり事を破ったのは、彼女を幸せにした俺にも責任がある。取れるのなら俺にも責任を取らせてくれ。とにかく彼女にだけ責任押し付けるのはやめてくれ!」
俺は感情の赴くままに、思いのたけを女性にぶつけていた。涙でほとんど視界はぼやけてしまっていた。
「あいつ……前にも一回、ある人の恨みで存在を消されそうになったことがあるんだよ。俺、その時あいつに対して何もできなくて……今回も夢香に何もしてあげられずに存在を消されると思うと……こんなクズ人間の俺なんか死んだ方がよっぽどましだよ!!うわあああああーーー!!」
もう泣き声とも叫び声とも区別がつかないようなめちゃくちゃな泣き方をしていた。この前、夢香の目の前で「夢香がいないと死んでしまう」と宣言してから、夢香のことが本当にいとおしく思えて、何もしなくても夢香が消えた瞬間、自動的に自分の心臓も止まるのではないかと考えもした。この決定が覆らないのであれば、いっそのこと夜が明けた後すぐに自らの命を絶とうと、遺書の内容を少しばかり考え始めた。
「……はぁ。あなたって人は」
女性は大きくため息をつき、こめかみをつまみながら下を向き、しばらく右往左往したのち、話し始めた。
「実は、今回は何もかもが初めてなんです。ワールド・インターチェンジで働いている人が「平等性」に違反することも、「存在を抹消する」という処罰を下すことも、私がこうやって働いている人の部屋にお邪魔するのも、そして……そこで現実で生きている人に出会うことも、その人がここで働いている人ととてつもなく強い関係で結ばれていることも、その人が泣きわめきながら必死に減刑を望むことも……」
女性は堅苦しい顔を少しだけ柔らかくし、軽く微笑んだ。
「残念ながら彼女の存在を消す決定をあなたが覆すことはできません。しかし、一日分だけ二人に猶予期間を設けます。この日には彼女には世界移動のシフトは入れません。二人で一晩かけてじっくりと話し合い、竜野夢香さんの存在が消えてしまうことをお互いに認め合ってください。次の日の夜が明ける前、竜野夢香さんの存在を消す手続きを行います。あなたが寝るときに「手続きに立ち会いたい」と願えば、その様子を見ることもできます」
「存在を消す、という決定は、どうしても取り消せませんか?」
「どうしてもできません。ワールド・インターチェンジのこの空間も、実は世界の一つであり、独自の世界の動き方をしています。ただ、人間が日常生活を送っている世界は他の世界に干渉することができませんが、ワールド・インターチェンジのこの空間だけは、全ての世界に対して手を加えることのできる権限があります。パソコンのユーザーアカウントで例えますと、私たちはアドミニストレータ、あなた方は一般ユーザーです。少し厳しいことを言いますと、一般ユーザーが管理者権限の作業を行うことはできない、すなわちあなた方が私たちの世界に介入しないでほしいのです。ただ……」
「ただ?」
「あなたは、アドミニストレータの一人である竜野夢香さんからパスワードを渡されたようなものです。一般ユーザーでも管理者パスワードがあれば管理者権限で作業が行えるように、あなたの自由な意思でこの世界に介入することはできませんが、竜野夢香さんの、正確には竜野夢香さんが所属しているこの場所の上層部である私たちの許可があれば、ある程度はあなたも私たちの世界に介入できます。猶予期間を設けられたのも、そのためだと思ってください」
「ところで、夢香は今、どこで何をしているんですか?」
「竜野夢香さんは今、私たちの事務所で事情聴取を受けているはずです。ところで、猶予期間の一日はいつにしますか?明日でもいいですし、一か月後でもいいのですが、シフトの調整があるので、うかがっておきます」
俺の答えに、迷いはなかった。
「明日で、お願いします」
俺は、夢香が消えてしまうという現実を、受け入れなければならなかった。それは、現実世界で言うところの、人の死を受け入れることと同じなのかもしれない。実際に誰か知り合いが亡くなったという現実に直面したことがないから実感はわかないが、おそらく俺は、その人が大事な人であればあるほど泣きわめき、その現実に向き合うことすらできず、それこそ自分もその人の後を追いかけていたかもしれない。
ふと、自分は人の死の場面に直面したことがあったことを思い出した。夢香だ。そう、夢香の話によれば、俺は夢香の死後、あまりの悲しさに後を追いかけようとしていた。その状況を、ワールド・インターチェンジで働き始めて間もない夢香が救い出し、俺を夢香に関する記憶が存在しない、夢香に関する悲しみが存在しなかった世界に移動した。夢香が死んだ直後、俺はどんなことを思っていたのだろう。やはり、先ほどの俺のように感情のままに泣き叫んでいたのだろうか。夢香についての記憶が取り戻せたとはいえ、ここが夢香に関するあらゆる記憶が消去されたままの世界であることに変わりはなく、夢香の死後の俺の記憶は全くと言っていいほど思い出せない。
俺は、最後の一日は早ければ早いほどお互いにとって良いものになると考えた。たしかに最後の一日を後に回せば回すほど、夢香のことを思っていられる時間は延びる。しかし、長いブランクを置いて再会した時、果たして前回あったときと全く同じテンションで出会うことができるであろうか。俺は、その答えはノーだと思った。ちょっとけんかするだけで気まずくなる俺たちだ。意図的にブランクを置いてしまっては、最後の一日であるにも関わらず気まずい雰囲気のまま過ごすことになり、それだけで時間の無駄になってしまう。今の俺たちなら、前回まではぐくんできた絆そのままの気持ちで接することができる。たとえ「夢香が消えてしまう」と知った今であっても、夢香ときちんと向き合い、すぐにお互いを受け入れられると、確信していた。そうすれば、最後の一日をより有効に使える。俺は、少しでも夢香と長くふれあっていられるように、ひいては夢香のために、明日を最後の一日にすることを選択した。
「わかりました。それではその方向で調整しておきます。今日は突然驚かせてしまってすみませんでした。それでは明日、竜野夢香さんと幸せなひとときをお過ごしください」
それだけ言って、女性はこの部屋の奥の方へ歩いて行き、いなくなってしまった。もしかして入れ替わりで夢香が来るんじゃないか、とも思ったが、しばらく待ってみても人が現れる気配はしなかったので、今日はもう元の世界に戻ることにした。
改めてベッドを眺める。あちこちに付着している夢香の血は、ほとんど茶色がかっていて、シーツの柄だと言っても不自然に感じないほどになっていた。そういえば、最近の夢香は苦しんだり血を吐いたりしなかったな、と、ふと思い出した。俺しかいないこの空間はとても静かで、空虚だった。俺たちの会話の音、ベッドのきしむ音、服がこすれ合う音、荒い鼻息の音、唇が触れ合う音、舌が絡み合う音、笑い声、泣き声、うめき声……などと思えば、この部屋に音が満ち溢れていたのは夢香と一緒にいられたからなのだと感じた。ベッドのそばには、ビリビリに破かれた夢香の服の一部が残っていた。それを手に取る。布地からして、セーターの下に着ているブラウスだろうか。十センチ四方ぐらいの大きさのそれを眺めながら、ほんの出来心で、
「下心はないからな。普段は絶対できない、絆の表現方法の一つ、だからな」
と、心の中でつぶやいておいてから、夢香のことをただ一心に考え、その布に向かってとある「作業」を行い、眠りについた。