あれから俺と優の関係がどうなったかというと、優が俺を好きだったということを思い出したものの、彼女は過去に犯した罪を自覚しており、また俺のことを好きだという感情が失われていたころの記憶を保ったままだったため、お互いの関係はここ数日間と大して変化はなかった。一つだけ、変化があったとすれば、喫茶店の中でのお互いの呼び名が再び「誠くん」「優」になったことぐらいだろうか。俺たちは、今まで通りの喫茶店でのひとときを過ごしていくことになった。
その夜、俺と夢香はお互い向かい合ってベッドの上に座っていた。昨日の出来事があったとはいえ、一度仲たがいをしていたから、気まずさで目を合わせることができなかった。でも、まず俺が何か言わなければならない、と思った。
「その……こないだは悪かった。ちょっと感情的になってしまってた。夢香がいいのなら、俺は」
「私、あの日誠さんとけんかして、あなたをここから追い出した後に、気付いたんです。誠さんがいないときのほうが、一緒にいるときよりもうんと苦しいことに。誠さんがいなければ迷惑をかけることがないし、私は幸せじゃなくなるから体が楽になる、って思い込んでいました。幸せじゃないのはちょっと我慢すれば乗り越えられると思ってました。だから、あのようなめちゃくちゃな言葉を誠さんに浴びせて、ここから追い出す形になってしまいました。でも、実際に誠さんがいなくなると……確かに体は楽になりました。昨日、優さんに応戦できるぐらいには元気になりました。でも、逆に心がすごく苦しくなることに気付いたんです。誠さんに会いたい、と強く感じました。誠さんに会いたくて、また今まで通り楽しくお話したくて、泣きたくなりました。でも、私は泣いてはいけないんだと思いました。あのように突っぱねてしまったから、誠さんが二度と私に構ってくれなくなるんじゃないかって。仮に構ってくれたとしても、今までと同じようにはいかなくなるんじゃないかって。そう思うと、今までに味わったどんな体の痛みよりもつらくて、悲しくて、寂しくて。でも、そのような状況にしてしまったのは私の責任だから、泣いても意味がない。むしろ、そんなことをしたら誠さんがきっと心配するかもしれない。だったら私、すごく自分勝手な悪い子みたいに思えて……泣いてはいけなかったんです。今も、です」
夢香はうつむいたまま、本当の気持ちを打ち明けてくれた。なんだよ、やっぱりそうじゃないか。夢香のことだからどうせ、とは思っていたが、やっぱり俺無しではダメダメじゃないか、もう。俺はいろいろ言葉を考えていたが、それらを組み合わせる気も失せてしまった。
「俺も、いろいろ格好つけて言いたいことはあるけど、結局こうなんだよ。俺たちってさ、家族みたいな絆で結ばれているから、こないだのこと程度でそんな簡単にこの関係が崩れるわけがないって。ごめんな、あのとき感情的になってしまって、あんなひどいこと言ってしまって。泣きたければ、泣けばいいよ。自分の感情を押し殺して苦しむ夢香をみているほうが、よっぽどつらいからさ」
とだけ、伝えた。夢香は、静かに目からあふれさせた涙で、俺の言葉に応えていた。
「もうっ、なんですか誠さん……また私を泣かせるんですか……結局、お互い様。ギブアンドテイク、ですね」
そして、お互いにはにかんだ。
「もしあの時、俺が夢香のことを抱きしめるかキスしていたら、状況変わってたのかな?」
「いえ、私がこのことに気付いたのは誠さんがいなくなってからです。病気になって初めて健康のありがたさがわかるようなものですよ。おそらく、そのようなことをしたとしても誠さんのことを突っぱねていたと思います。そうすれば、もっと誠さんを傷つけていたかもしれません」
夢香はゆっくりとベッドの上を移動し、中央で仰向けになった。両手をこちらに伸ばして言った。
「なんなら、今、それをしてもらっても、いいですか?」
「……あぁ」
俺は、仰向けになる夢香の上にゆっくりとまたがり、俺の返事を聞くだけで幸せいっぱいになった夢香の表情を眺めながら、その顔に手を沿え、静かに覆い被さっていった。
かばっ。
「……んんっ」
ほら、思った通りだ。今のはどう考えたって俺のほうから抱きしめてキスする流れだったのに。夢香の奴、いきなり体を半分起こして俺に抱きついて、そのままキスしてくるんだぜ? くそう、いっつもおいしいところだけ持って行きやがって。しかし、それでもよかった。それが、俺たちのスタイルなのだから。俺たちだけの、絆の形なのだから。
しかし、心の片隅で予想していたことが、悲しいかな、起こってしまった。
「……うっ……ああ!!」
夢香は突然体をよじらせ、イモムシのようにウネウネさせた。それは明らかに意識的な行動ではなかった。そして、俺から抜け出るようにしながら顔をベッドの外に出した。その直後、激しく血を吐いた。
「ゆ……夢香……」
俺は何もすることができずに、ただ床に吐き散らされた暗赤色の液体と、胸を抑えながら苦しむ夢香を交互に見つめるしかできなかった。
くっそ……なんで俺には何もできないんだよ。この前夢香が熱を出して倒れたときだって、もし水とか布切れとかがなかったら、俺には何もできなかったんじゃないのかよ。俺は、何もできないまま夢香の苦しむ姿をただ見つめるほかなかったのかよ。なんで俺に何でもやらせてくれないんだよ。俺に夢香のことを助けさせてくれよ。なんで夢香だけがこんなに苦しい思いをしなくちゃいけないんだよ。なんで夢香だけが傷つけられなくちゃいけないんだよ。なんで夢香だけが、なんで夢香だけが……
「誠さん……どうして、泣いているんですか……? どうして、誠さんが泣くんですか?」
いつしか、俺の視界は涙でぼやけてしまっていた。頬が流れ落ちる涙で熱くなり、でもすぐに蒸発して冷たくなる。無意識に不規則な呼吸を強いられていた。しかしそんな状況でも、口の周りを血で赤くした夢香が心配そうに俺を見つめてくれる姿だけははっきりと見えた。涙でぼやけているはずなのにはっきりと、あまりにもくっきりと目に映って、それが余計に、つらかった。
「ご……ごめんな、夢香。心配かけて。俺な、前に夢香が熱を出した時、たぶん泣きたくなるほど心配だったんだわ。最近になって夢香の体調が悪くなったときも、夢香が現実世界では生きていないってわかったときも、泣きわめきたいほどつらかったんだと思う。でも、いつも俺を心配してくれる夢香にだけは心配かけたくなくて、いつも俺を幸せにしてくれるお返しに、少しでも夢香に幸せになってほしくて、今まで平静を装って接してきた。だけど……無理だったわ。お互い隠し事無しでありのままでいようって決めてたのに、というかお互い素直な気持ちを伝えあおうって決めたの俺なのに、何やってんだ俺……バカだなぁ、情けないなぁ、俺」
その時、夢香が俺のことを再び抱きしめてきた。ただ一心に、抱きしめてくれた。彼女の体はもうボロボロのはずなのに、とても温かくて柔らかくて……それは、誰かを本気で大事に思い、強い絆で結ばれてしか保つことのできないであろう、夢香の気持ちそのものだった。彼女は何も言わずに、俺の顔を胸元にうずめさせていた。情けないことに、俺はそこに向かって再び嗚咽を漏らすのだった。しばらくして、静かに俺の頭を撫でながら言った。
「誠さん、私、ちょっとだけ強がってみてもいいですか? ……誠さん、あなたは私に心配をかけていればいいんです。あなたは私に幸せにさせられていればいいんです。何もお返ししようなんて、考えなくていいんですよ。どうしてか、教えましょうか? 私にとっては、誠さんという存在そのものが、何よりも一番のお返しで、どんな形よりも大きな、幸せだからです。夢の時間だけでいいんです。ここに誠さんがいてくれるだけで、誠さんが私のことを思ってくれるだけで、それだけでいいんですよ。あぁ、こんな気持ち、初めてだなぁ」
首筋に温かいしずくが感じられた。それは明らかに俺が生み出したものではなくて、顔は見えなかったけど、その一滴……あ、また一滴、首筋をつたって流れ落ちてゆく。そのしずくだけで、夢香の思いのすべてを感じ取ることができるような気がした。彼女の「誠さんという存在そのものが、何よりも一番のお返しで、どんな形よりも大きな、幸せ」という言葉が何度も頭の中で反復される。その言葉はあまりにも強力で、苦しくて、優しい、夢香の心の底からの思いだった。
「私、前に自分のわがままで同い年のある男の子をけがさせてしまったとお話ししました。実はその時、私はその子のことが好きだったんです。今まで生きてきた中で一番、男の子を好きだったと、自信を持って言えます。でも、今、誠さんに対して感じているこの気持ちは、それをはるかに超えるもののような気がします。だって、誠さんには見えていないと思いますが、私……涙が止まらないんです。誠さんとこうやって抱き合っているだけなのに、目からどんどん涙があふれ出てきて、それをどうすることもできないんです。これが好きという気持ちじゃないことは明らかです。だって、そうじゃなかったら今ごろ恥ずかしくて誠さんを突き放していると思います」
俺は、言葉を話す気がなかった。というと感じが悪いように聞こえるが、今の俺たちは言葉がなくても……極端な話、見つめあうことすらなく、こうやってふれあっているだけで互いに思いを伝えられるような気がして、もしそれで具体的な思いが伝わらなかったとしても、お互いを大事に思っていて、最高の絆を確かめあうということだけは実際に今、可能であった。
「私、また一つ思い出しました。私の未練、同い年の男の子を幸せにすることじゃなかったんです。自分がおもちゃを奪われて、車にはねられ、過去の記憶が曖昧になるという取り返しのつかない傷を負ったというのに、それでも退院後に私と一緒に遊んでくれて、私に優しくしてくれた彼に、「ありがとう」って伝えたかったんです」
俺は顔を夢香の胸元から引き抜き、彼女を見つめた。
「彼が退院してから一ヶ月ほど経ったある日、彼が私に言ってくれたんです、もしかして俺がけがをしたことを気にしてる? って。私はうん、すごく申し訳なく思ってる、って答えました。そしたら彼、こう言うんです。もしも俺のけがが原因で俺のことを遠くに感じるのなら、それはすごく残念だ、って。たしかに俺のけがの原因は夢香ちゃんかもしれないけど、感情のままに外に飛び出していった自分にも非がある。お互い様、プラスマイナスゼロ。だから、気にしないでって。私はどうしてそこまで私をかばうのか、聞きました。彼が私のことを好きだって、教えてくれたのは、その後の言葉でした。詳しい言葉までは覚えていませんが、事故で記憶が曖昧になった後も、家族と、私のことだけははっきり覚えていて、私のことをずっと前から好きだったことも覚えていたらしいんです。私も、ここで自分の気持ちを伝えるつもりだったんです。でも、すごくうれしくて、感情が抑えきれなくなって、私は泣いてしまったんです。彼に慰められるうちにうやむやになって、結局その日は思いを伝えることができませんでした。それから後も、何度か思いを伝えようと努力したんですが、彼を前にするとうまく感情をコントロールすることができなくなって、「やっぱなんでもない」とか「気持ちが落ち着いた時、ちゃんと言うね」って言って、ごまかしてしまうんです。そのうち彼のテンションに乗っかって、告白することを忘れて遊ぶ、の繰り返しでした」
「そうなのか……」
「実は、あの事故の半年後に私の父親の仕事の都合で引っ越しをしないといけないことになったんです。あ、別に事故の責任で男の子の家族から離れた、なんてことではないんです。偶然こうなってしまって、しかもあまりに急な話だったので私は家の片付けを手伝わされて、その男の子と会う時間がなかったんです。そのまま、最後のあいさつをする暇もなく引っ越してしまったんです」
「それは……残念だったな……」
「別に海外に引っ越したわけではないので、連絡先さえ交換していれば手紙でも電話でもお話をすることが可能でしたし、高校生ぐらいになれば実際に会うこともできないわけではありませんでした。でも先ほど言ったように、離ればなれになる前に彼とお話する時間が全くなかったので、連絡先と呼べるものは何も交換できませんでした。親に聞くことも考えましたが、事故のことを掘り返されて「相手方に迷惑がかかると思うから、やめなさい」と言われるのはわかっていたので、聞くことはできませんでした」
俺は夢香の話に耳を傾けながら、そういえば自分も誰かと離ればなれになってしまうとわかったものの、相手の家族の忙しさで最後のあいさつをすることができなかった、というような事案があったような気がすることを思い出した。
「あの後、彼がどんな生活を送っていたか、私は知りませんし、彼もまた私がどんな生活を送っているのか知らないと思います。もちろん、私が死んだことも……」
そのうち、長い夜が終わりの時間を迎えた。俺たちはまた少し赤い斑点の数が増えたベッドに横になり、二人で手をつないで元の世界へと戻っていった。
「私……「ありがとう」って、伝えたいです……」
その夜、俺と夢香はお互い向かい合ってベッドの上に座っていた。昨日の出来事があったとはいえ、一度仲たがいをしていたから、気まずさで目を合わせることができなかった。でも、まず俺が何か言わなければならない、と思った。
「その……こないだは悪かった。ちょっと感情的になってしまってた。夢香がいいのなら、俺は」
「私、あの日誠さんとけんかして、あなたをここから追い出した後に、気付いたんです。誠さんがいないときのほうが、一緒にいるときよりもうんと苦しいことに。誠さんがいなければ迷惑をかけることがないし、私は幸せじゃなくなるから体が楽になる、って思い込んでいました。幸せじゃないのはちょっと我慢すれば乗り越えられると思ってました。だから、あのようなめちゃくちゃな言葉を誠さんに浴びせて、ここから追い出す形になってしまいました。でも、実際に誠さんがいなくなると……確かに体は楽になりました。昨日、優さんに応戦できるぐらいには元気になりました。でも、逆に心がすごく苦しくなることに気付いたんです。誠さんに会いたい、と強く感じました。誠さんに会いたくて、また今まで通り楽しくお話したくて、泣きたくなりました。でも、私は泣いてはいけないんだと思いました。あのように突っぱねてしまったから、誠さんが二度と私に構ってくれなくなるんじゃないかって。仮に構ってくれたとしても、今までと同じようにはいかなくなるんじゃないかって。そう思うと、今までに味わったどんな体の痛みよりもつらくて、悲しくて、寂しくて。でも、そのような状況にしてしまったのは私の責任だから、泣いても意味がない。むしろ、そんなことをしたら誠さんがきっと心配するかもしれない。だったら私、すごく自分勝手な悪い子みたいに思えて……泣いてはいけなかったんです。今も、です」
夢香はうつむいたまま、本当の気持ちを打ち明けてくれた。なんだよ、やっぱりそうじゃないか。夢香のことだからどうせ、とは思っていたが、やっぱり俺無しではダメダメじゃないか、もう。俺はいろいろ言葉を考えていたが、それらを組み合わせる気も失せてしまった。
「俺も、いろいろ格好つけて言いたいことはあるけど、結局こうなんだよ。俺たちってさ、家族みたいな絆で結ばれているから、こないだのこと程度でそんな簡単にこの関係が崩れるわけがないって。ごめんな、あのとき感情的になってしまって、あんなひどいこと言ってしまって。泣きたければ、泣けばいいよ。自分の感情を押し殺して苦しむ夢香をみているほうが、よっぽどつらいからさ」
とだけ、伝えた。夢香は、静かに目からあふれさせた涙で、俺の言葉に応えていた。
「もうっ、なんですか誠さん……また私を泣かせるんですか……結局、お互い様。ギブアンドテイク、ですね」
そして、お互いにはにかんだ。
「もしあの時、俺が夢香のことを抱きしめるかキスしていたら、状況変わってたのかな?」
「いえ、私がこのことに気付いたのは誠さんがいなくなってからです。病気になって初めて健康のありがたさがわかるようなものですよ。おそらく、そのようなことをしたとしても誠さんのことを突っぱねていたと思います。そうすれば、もっと誠さんを傷つけていたかもしれません」
夢香はゆっくりとベッドの上を移動し、中央で仰向けになった。両手をこちらに伸ばして言った。
「なんなら、今、それをしてもらっても、いいですか?」
「……あぁ」
俺は、仰向けになる夢香の上にゆっくりとまたがり、俺の返事を聞くだけで幸せいっぱいになった夢香の表情を眺めながら、その顔に手を沿え、静かに覆い被さっていった。
かばっ。
「……んんっ」
ほら、思った通りだ。今のはどう考えたって俺のほうから抱きしめてキスする流れだったのに。夢香の奴、いきなり体を半分起こして俺に抱きついて、そのままキスしてくるんだぜ? くそう、いっつもおいしいところだけ持って行きやがって。しかし、それでもよかった。それが、俺たちのスタイルなのだから。俺たちだけの、絆の形なのだから。
しかし、心の片隅で予想していたことが、悲しいかな、起こってしまった。
「……うっ……ああ!!」
夢香は突然体をよじらせ、イモムシのようにウネウネさせた。それは明らかに意識的な行動ではなかった。そして、俺から抜け出るようにしながら顔をベッドの外に出した。その直後、激しく血を吐いた。
「ゆ……夢香……」
俺は何もすることができずに、ただ床に吐き散らされた暗赤色の液体と、胸を抑えながら苦しむ夢香を交互に見つめるしかできなかった。
くっそ……なんで俺には何もできないんだよ。この前夢香が熱を出して倒れたときだって、もし水とか布切れとかがなかったら、俺には何もできなかったんじゃないのかよ。俺は、何もできないまま夢香の苦しむ姿をただ見つめるほかなかったのかよ。なんで俺に何でもやらせてくれないんだよ。俺に夢香のことを助けさせてくれよ。なんで夢香だけがこんなに苦しい思いをしなくちゃいけないんだよ。なんで夢香だけが傷つけられなくちゃいけないんだよ。なんで夢香だけが、なんで夢香だけが……
「誠さん……どうして、泣いているんですか……? どうして、誠さんが泣くんですか?」
いつしか、俺の視界は涙でぼやけてしまっていた。頬が流れ落ちる涙で熱くなり、でもすぐに蒸発して冷たくなる。無意識に不規則な呼吸を強いられていた。しかしそんな状況でも、口の周りを血で赤くした夢香が心配そうに俺を見つめてくれる姿だけははっきりと見えた。涙でぼやけているはずなのにはっきりと、あまりにもくっきりと目に映って、それが余計に、つらかった。
「ご……ごめんな、夢香。心配かけて。俺な、前に夢香が熱を出した時、たぶん泣きたくなるほど心配だったんだわ。最近になって夢香の体調が悪くなったときも、夢香が現実世界では生きていないってわかったときも、泣きわめきたいほどつらかったんだと思う。でも、いつも俺を心配してくれる夢香にだけは心配かけたくなくて、いつも俺を幸せにしてくれるお返しに、少しでも夢香に幸せになってほしくて、今まで平静を装って接してきた。だけど……無理だったわ。お互い隠し事無しでありのままでいようって決めてたのに、というかお互い素直な気持ちを伝えあおうって決めたの俺なのに、何やってんだ俺……バカだなぁ、情けないなぁ、俺」
その時、夢香が俺のことを再び抱きしめてきた。ただ一心に、抱きしめてくれた。彼女の体はもうボロボロのはずなのに、とても温かくて柔らかくて……それは、誰かを本気で大事に思い、強い絆で結ばれてしか保つことのできないであろう、夢香の気持ちそのものだった。彼女は何も言わずに、俺の顔を胸元にうずめさせていた。情けないことに、俺はそこに向かって再び嗚咽を漏らすのだった。しばらくして、静かに俺の頭を撫でながら言った。
「誠さん、私、ちょっとだけ強がってみてもいいですか? ……誠さん、あなたは私に心配をかけていればいいんです。あなたは私に幸せにさせられていればいいんです。何もお返ししようなんて、考えなくていいんですよ。どうしてか、教えましょうか? 私にとっては、誠さんという存在そのものが、何よりも一番のお返しで、どんな形よりも大きな、幸せだからです。夢の時間だけでいいんです。ここに誠さんがいてくれるだけで、誠さんが私のことを思ってくれるだけで、それだけでいいんですよ。あぁ、こんな気持ち、初めてだなぁ」
首筋に温かいしずくが感じられた。それは明らかに俺が生み出したものではなくて、顔は見えなかったけど、その一滴……あ、また一滴、首筋をつたって流れ落ちてゆく。そのしずくだけで、夢香の思いのすべてを感じ取ることができるような気がした。彼女の「誠さんという存在そのものが、何よりも一番のお返しで、どんな形よりも大きな、幸せ」という言葉が何度も頭の中で反復される。その言葉はあまりにも強力で、苦しくて、優しい、夢香の心の底からの思いだった。
「私、前に自分のわがままで同い年のある男の子をけがさせてしまったとお話ししました。実はその時、私はその子のことが好きだったんです。今まで生きてきた中で一番、男の子を好きだったと、自信を持って言えます。でも、今、誠さんに対して感じているこの気持ちは、それをはるかに超えるもののような気がします。だって、誠さんには見えていないと思いますが、私……涙が止まらないんです。誠さんとこうやって抱き合っているだけなのに、目からどんどん涙があふれ出てきて、それをどうすることもできないんです。これが好きという気持ちじゃないことは明らかです。だって、そうじゃなかったら今ごろ恥ずかしくて誠さんを突き放していると思います」
俺は、言葉を話す気がなかった。というと感じが悪いように聞こえるが、今の俺たちは言葉がなくても……極端な話、見つめあうことすらなく、こうやってふれあっているだけで互いに思いを伝えられるような気がして、もしそれで具体的な思いが伝わらなかったとしても、お互いを大事に思っていて、最高の絆を確かめあうということだけは実際に今、可能であった。
「私、また一つ思い出しました。私の未練、同い年の男の子を幸せにすることじゃなかったんです。自分がおもちゃを奪われて、車にはねられ、過去の記憶が曖昧になるという取り返しのつかない傷を負ったというのに、それでも退院後に私と一緒に遊んでくれて、私に優しくしてくれた彼に、「ありがとう」って伝えたかったんです」
俺は顔を夢香の胸元から引き抜き、彼女を見つめた。
「彼が退院してから一ヶ月ほど経ったある日、彼が私に言ってくれたんです、もしかして俺がけがをしたことを気にしてる? って。私はうん、すごく申し訳なく思ってる、って答えました。そしたら彼、こう言うんです。もしも俺のけがが原因で俺のことを遠くに感じるのなら、それはすごく残念だ、って。たしかに俺のけがの原因は夢香ちゃんかもしれないけど、感情のままに外に飛び出していった自分にも非がある。お互い様、プラスマイナスゼロ。だから、気にしないでって。私はどうしてそこまで私をかばうのか、聞きました。彼が私のことを好きだって、教えてくれたのは、その後の言葉でした。詳しい言葉までは覚えていませんが、事故で記憶が曖昧になった後も、家族と、私のことだけははっきり覚えていて、私のことをずっと前から好きだったことも覚えていたらしいんです。私も、ここで自分の気持ちを伝えるつもりだったんです。でも、すごくうれしくて、感情が抑えきれなくなって、私は泣いてしまったんです。彼に慰められるうちにうやむやになって、結局その日は思いを伝えることができませんでした。それから後も、何度か思いを伝えようと努力したんですが、彼を前にするとうまく感情をコントロールすることができなくなって、「やっぱなんでもない」とか「気持ちが落ち着いた時、ちゃんと言うね」って言って、ごまかしてしまうんです。そのうち彼のテンションに乗っかって、告白することを忘れて遊ぶ、の繰り返しでした」
「そうなのか……」
「実は、あの事故の半年後に私の父親の仕事の都合で引っ越しをしないといけないことになったんです。あ、別に事故の責任で男の子の家族から離れた、なんてことではないんです。偶然こうなってしまって、しかもあまりに急な話だったので私は家の片付けを手伝わされて、その男の子と会う時間がなかったんです。そのまま、最後のあいさつをする暇もなく引っ越してしまったんです」
「それは……残念だったな……」
「別に海外に引っ越したわけではないので、連絡先さえ交換していれば手紙でも電話でもお話をすることが可能でしたし、高校生ぐらいになれば実際に会うこともできないわけではありませんでした。でも先ほど言ったように、離ればなれになる前に彼とお話する時間が全くなかったので、連絡先と呼べるものは何も交換できませんでした。親に聞くことも考えましたが、事故のことを掘り返されて「相手方に迷惑がかかると思うから、やめなさい」と言われるのはわかっていたので、聞くことはできませんでした」
俺は夢香の話に耳を傾けながら、そういえば自分も誰かと離ればなれになってしまうとわかったものの、相手の家族の忙しさで最後のあいさつをすることができなかった、というような事案があったような気がすることを思い出した。
「あの後、彼がどんな生活を送っていたか、私は知りませんし、彼もまた私がどんな生活を送っているのか知らないと思います。もちろん、私が死んだことも……」
そのうち、長い夜が終わりの時間を迎えた。俺たちはまた少し赤い斑点の数が増えたベッドに横になり、二人で手をつないで元の世界へと戻っていった。
「私……「ありがとう」って、伝えたいです……」