「やあいらっしゃいお嬢ちゃん。となりの坊ちゃんは久しぶりだね」
渋い声でオーナーがカウンターから声をかける。うれしいことに、オーナーは俺のことを覚えていてくれた。ここは、タバコのにおいや木のにおい、コーヒーの香りが複雑に混じり合い、この喫茶店にしかない空気を作り出していた。まるで別世界だった。客の出入りが少ないためか、店内はもっさりとした空気に満たされていて、それがこのお店の雰囲気とマッチしていて、気分の悪いものではなかった。たった今俺たちが入ってきたドアの周辺だけは、空気がピリッと冴えていた。
「おじさん、いつものコーヒーをお願い。彼にも同じものを」
優はここによく通っているらしく、オーナーに対してため口、注文は「いつもの」で通じる。ちょっとかっこいいと思った。そして俺たちはカウンターの端に座った。聞いた話では、ここが優の定位置らしい。
「はい、どうぞ~」
俺たちの目の前にコーヒーが置かれる。それは初めて来た時と同じ香りを放っていた。
「今日は私がおごるね。相談に乗ってくれたお礼」
「ありがとう。いただきます」
「なになに~相談って? おじさんが乗ってあげようか~」
「この前からおじさんに話しているのと同じことだよ。誠くんにも協力してもらうことにしたんだ」
コーヒーカップをつかみ、口へと運ぶ。あつっ。突如口の中に流し込まれた高温の液体に思わず声を上げて驚いてしまった。コーヒーはしばらく冷ましておくことにした。優も見たところまだコーヒーには手を付けておらず、飲みやすい温度まで冷ましているようだった。
それから、俺たち三人は会話を続けた。今は客がほとんど来ない時間帯らしく、オーナーはまるで俺たちの友人のように親しく会話に入って楽しんでいた。
「「ごちそうさまでした」」
二人のカップが空になったところで、俺たちは店を出た。ゆったりとした時間の流れる空間からシャキッとした慌ただしい空間に出た後も、俺たちの周りを喫茶店のぬくもりが包み込んでいた。
「今日はありがとね。明日からまた、よろしくね」
「あぁ、またな」
「あっそうだ! 誠くん、今ケータイ持ってる? アドレス交換しよっ?」
「えっ……あ、いいけど」
そして俺は携帯電話を彼女に渡す。俺は未だかつてクラスの人と関わりを持つことなんてあまりなかったから、女子はおろかクラスの男のアドレスすら持っていなかった。優のアドレスは、俺の携帯電話に登録される初めての女の子のアドレス……いや、よく考えれば母さんの携帯電話のアドレスが登録されてたわ。しかし、同年代の女子のそれが初めてであることは、確かだった。であると同時に、初めて登録されるクラスメイトのアドレスでもあった。
「はいっ、登録完了~。また後でメールするね」
「おう、よろしく」
携帯電話を受け取ろうとした時、優の手と俺の手が触れ合った。かと思えば、彼女は俺の携帯電話と一緒に俺の手を優しく包み込んだ。温かくて、すべすべの彼女の手。当然こんな経験をしたことなど今まで一度もなかったので、俺の心臓の鼓動はターボブースト級で加速を始めた。
「あっ、ごめんね、急に手を握ったりなんかして。でも、私の悩みをそのまま受け入れてくれて、普通の女の子として接してくれたのが誠くんだけだから……言い方があれかもしれないけど、誠くんは私にとっての特別な存在だから……だから、これからもその、よろしくね?」
「……おぅ」
優は握っていた俺の手を離し、思い出したように周囲を見渡した。ここまで物音らしき音は何も聴こえなかったので、この様子を誰かに見られたとかはおそらくないだろう。俺はカバンを自転車に載せ、駐輪場からゆっくりと押し始めた。
「じゃあ、またね」
「う、うん。また」
俺たちは喫茶店の前で別れた。気がつくともう夕方。日の落ち方からして、もうすぐ十八時になるのではないだろうか。早くしないと夕食の時間になってしまう。俺は少し慌てて自転車をこいだ。彼女の温かな手の感触と、「特別な存在」という言葉が何度もよみがえった。このドキドキした感覚は、家に到着するまでずっと続いていた。
その日の夜、さっそく優からメールがやってきた。
「今日はありがとね。明日からもよろしくね。あと、学校ではできるだけ今まで通りに過ごそうね」
という、簡潔な本文だった。俺も、
「こちらこそよろしく」
と、簡単に返事を送っておいた。
日付が変わろうとする頃、俺は眠りについた。
「はぁ、これからどんな毎日になるんだろうな……」
そんなことを思いながら、まもなく意識は闇の中へと消えていった。
それからというもの、俺たちは学校のある日はほぼ毎日、この喫茶店に入り、時々コーヒーを飲みながら会話を楽しんだ。夏休み以降は、交換したメールアドレスで連絡を取り合い、都合の合う日は喫茶店で会うことも決めた。そのうち、マスターが「大人の事情云々」かなんかで、オーナーにコーヒーをただでごちそうしてくれることもあった。また、毎日コーヒーを飲むのは高校生のお財布には厳しいだろうというオーナーの計らいで、何も注文せずにおしゃべりするだけでもいいということにもなった。もともと平日の昼下がりは人が少ないから、オーナーも暇を持て余しており、話し相手が欲しかったらしい。
会話以外では、学校の宿題などの勉強をすることもあった。お互いに分からないところを教えあったり、大量の宿題を協力して片付けたりした。二人で協力しても分からない問題はオーナーに尋ねた。実はオーナーは昔、高校の教師をしていたことがあるそうだ。なぜ喫茶店を経営しようと思ったかについては聞かなかったが、難しい問題も分かりやすく解説してくれた。オーナーにも分からない問題があったときは……三人で学校に対する愚痴を言い合った。オーナーが教えてくれたのは学校の勉強のことだけではなく、職に就くとは何か、とか、将来に向けて心がけるべきこと、などといった、人生の勉強(?)を教わることもあった。
いつしか俺と優は、まるでずっと昔から学校帰りにこの喫茶店に立ち寄り、オーナーとともに夕方のひとときを楽しんでいたのではないか、と感じ始めるようになった。今になって思い返してみると、あの時の俺たちは、その喫茶店でのやり取りを通して、少しずつ親密な関係を築いていったんだな、と思う。恥ずかしいことにその時の俺は、まさか自分たちの関係がそういうことになろうとしていたとか、優がそんなことを思っていたとか、まるで思いもしなかった。思いたくなかったのかもしれない。しかし、どんなに鈍い俺でも、そのすべてに気付かされる出来事が、あのとき起こった。今思えば、この時から自分は恋愛に関して敏感になり、冷静に考えられるようになったのではないか、とすら感じている。
その日は夏休みだというのに補習という、おそらく全国の高校生が嫌う学校行事のトップ3にランクインするであろうイベントに参加を余儀なくされていた。その日の授業がようやく終わり、俺たちはあくまでいつものようにその喫茶店に入り、午後のひとときを楽しんでいた。あくまでいつものように宿題を進め、あくまでいつものようにオーナーを交えた三人での会話を楽しんでいた。それが終わり、喫茶店を出た時だった。俺が自転車に乗ろうと鍵を探っていると、優が突然俺の服の裾をつかんできた。初めはちょっとつまむ程度だったが、少しずつつかみ直し、その部分がくしゃくしゃになるぐらいに強くつかんだ。優は俺のほうを向いてうつむいていた。夕焼けで区別はつきにくかったが、彼女の顔は熱く火照っているように見えた。俺は突然の状況に困惑した。そして、彼女が見せるいとおしい表情に、全身が硬直した。鍵を探っていた左手は、カバンの中でフリーズしていた。しゃべることも、動くこともできなかった。しばらくして優は言った。
「もう少しだけ、いっしょにいたいな」
そして、ふっと顔をこちらに向けた。ドキッとした。それはいつもの優の表情ではなかった。本気で、できることならいつまでも、なんなら一生、俺と一緒にいたい、姫路誠の隣にいたい、そう言おうとしているようにも見えた。
ようやく我に返る。俺たちはその場に立ち尽くしていても仕方ないので、少し歩いたところにある小さな公園に行くことにした。先ほどの喫茶店は、わずかな人通りのある細い路地からさらに少し入ったところに位置していたため、近所の人が一人二人行き来することはあったが、その公園はそこからさらに奥へと踏み入った場所にあったため、そのわずか人通りすらなくなってしまう。公園の入口に立つ。ほとんど使われていないことが、錆び付いた遊具から分かる。近所の人が早朝の散歩の時に休憩場所として使用しているのだろうか、三つほど並べられたベンチだけはどれもきれいだった。俺たちはそのベンチに座り、優の願いに付き合うことにした。喫茶店の話の続きで盛り上がる。五分もすれば、先ほど彼女が見せた特別な表情のことは頭の片隅から消え去っていた。
渋い声でオーナーがカウンターから声をかける。うれしいことに、オーナーは俺のことを覚えていてくれた。ここは、タバコのにおいや木のにおい、コーヒーの香りが複雑に混じり合い、この喫茶店にしかない空気を作り出していた。まるで別世界だった。客の出入りが少ないためか、店内はもっさりとした空気に満たされていて、それがこのお店の雰囲気とマッチしていて、気分の悪いものではなかった。たった今俺たちが入ってきたドアの周辺だけは、空気がピリッと冴えていた。
「おじさん、いつものコーヒーをお願い。彼にも同じものを」
優はここによく通っているらしく、オーナーに対してため口、注文は「いつもの」で通じる。ちょっとかっこいいと思った。そして俺たちはカウンターの端に座った。聞いた話では、ここが優の定位置らしい。
「はい、どうぞ~」
俺たちの目の前にコーヒーが置かれる。それは初めて来た時と同じ香りを放っていた。
「今日は私がおごるね。相談に乗ってくれたお礼」
「ありがとう。いただきます」
「なになに~相談って? おじさんが乗ってあげようか~」
「この前からおじさんに話しているのと同じことだよ。誠くんにも協力してもらうことにしたんだ」
コーヒーカップをつかみ、口へと運ぶ。あつっ。突如口の中に流し込まれた高温の液体に思わず声を上げて驚いてしまった。コーヒーはしばらく冷ましておくことにした。優も見たところまだコーヒーには手を付けておらず、飲みやすい温度まで冷ましているようだった。
それから、俺たち三人は会話を続けた。今は客がほとんど来ない時間帯らしく、オーナーはまるで俺たちの友人のように親しく会話に入って楽しんでいた。
「「ごちそうさまでした」」
二人のカップが空になったところで、俺たちは店を出た。ゆったりとした時間の流れる空間からシャキッとした慌ただしい空間に出た後も、俺たちの周りを喫茶店のぬくもりが包み込んでいた。
「今日はありがとね。明日からまた、よろしくね」
「あぁ、またな」
「あっそうだ! 誠くん、今ケータイ持ってる? アドレス交換しよっ?」
「えっ……あ、いいけど」
そして俺は携帯電話を彼女に渡す。俺は未だかつてクラスの人と関わりを持つことなんてあまりなかったから、女子はおろかクラスの男のアドレスすら持っていなかった。優のアドレスは、俺の携帯電話に登録される初めての女の子のアドレス……いや、よく考えれば母さんの携帯電話のアドレスが登録されてたわ。しかし、同年代の女子のそれが初めてであることは、確かだった。であると同時に、初めて登録されるクラスメイトのアドレスでもあった。
「はいっ、登録完了~。また後でメールするね」
「おう、よろしく」
携帯電話を受け取ろうとした時、優の手と俺の手が触れ合った。かと思えば、彼女は俺の携帯電話と一緒に俺の手を優しく包み込んだ。温かくて、すべすべの彼女の手。当然こんな経験をしたことなど今まで一度もなかったので、俺の心臓の鼓動はターボブースト級で加速を始めた。
「あっ、ごめんね、急に手を握ったりなんかして。でも、私の悩みをそのまま受け入れてくれて、普通の女の子として接してくれたのが誠くんだけだから……言い方があれかもしれないけど、誠くんは私にとっての特別な存在だから……だから、これからもその、よろしくね?」
「……おぅ」
優は握っていた俺の手を離し、思い出したように周囲を見渡した。ここまで物音らしき音は何も聴こえなかったので、この様子を誰かに見られたとかはおそらくないだろう。俺はカバンを自転車に載せ、駐輪場からゆっくりと押し始めた。
「じゃあ、またね」
「う、うん。また」
俺たちは喫茶店の前で別れた。気がつくともう夕方。日の落ち方からして、もうすぐ十八時になるのではないだろうか。早くしないと夕食の時間になってしまう。俺は少し慌てて自転車をこいだ。彼女の温かな手の感触と、「特別な存在」という言葉が何度もよみがえった。このドキドキした感覚は、家に到着するまでずっと続いていた。
その日の夜、さっそく優からメールがやってきた。
「今日はありがとね。明日からもよろしくね。あと、学校ではできるだけ今まで通りに過ごそうね」
という、簡潔な本文だった。俺も、
「こちらこそよろしく」
と、簡単に返事を送っておいた。
日付が変わろうとする頃、俺は眠りについた。
「はぁ、これからどんな毎日になるんだろうな……」
そんなことを思いながら、まもなく意識は闇の中へと消えていった。
それからというもの、俺たちは学校のある日はほぼ毎日、この喫茶店に入り、時々コーヒーを飲みながら会話を楽しんだ。夏休み以降は、交換したメールアドレスで連絡を取り合い、都合の合う日は喫茶店で会うことも決めた。そのうち、マスターが「大人の事情云々」かなんかで、オーナーにコーヒーをただでごちそうしてくれることもあった。また、毎日コーヒーを飲むのは高校生のお財布には厳しいだろうというオーナーの計らいで、何も注文せずにおしゃべりするだけでもいいということにもなった。もともと平日の昼下がりは人が少ないから、オーナーも暇を持て余しており、話し相手が欲しかったらしい。
会話以外では、学校の宿題などの勉強をすることもあった。お互いに分からないところを教えあったり、大量の宿題を協力して片付けたりした。二人で協力しても分からない問題はオーナーに尋ねた。実はオーナーは昔、高校の教師をしていたことがあるそうだ。なぜ喫茶店を経営しようと思ったかについては聞かなかったが、難しい問題も分かりやすく解説してくれた。オーナーにも分からない問題があったときは……三人で学校に対する愚痴を言い合った。オーナーが教えてくれたのは学校の勉強のことだけではなく、職に就くとは何か、とか、将来に向けて心がけるべきこと、などといった、人生の勉強(?)を教わることもあった。
いつしか俺と優は、まるでずっと昔から学校帰りにこの喫茶店に立ち寄り、オーナーとともに夕方のひとときを楽しんでいたのではないか、と感じ始めるようになった。今になって思い返してみると、あの時の俺たちは、その喫茶店でのやり取りを通して、少しずつ親密な関係を築いていったんだな、と思う。恥ずかしいことにその時の俺は、まさか自分たちの関係がそういうことになろうとしていたとか、優がそんなことを思っていたとか、まるで思いもしなかった。思いたくなかったのかもしれない。しかし、どんなに鈍い俺でも、そのすべてに気付かされる出来事が、あのとき起こった。今思えば、この時から自分は恋愛に関して敏感になり、冷静に考えられるようになったのではないか、とすら感じている。
その日は夏休みだというのに補習という、おそらく全国の高校生が嫌う学校行事のトップ3にランクインするであろうイベントに参加を余儀なくされていた。その日の授業がようやく終わり、俺たちはあくまでいつものようにその喫茶店に入り、午後のひとときを楽しんでいた。あくまでいつものように宿題を進め、あくまでいつものようにオーナーを交えた三人での会話を楽しんでいた。それが終わり、喫茶店を出た時だった。俺が自転車に乗ろうと鍵を探っていると、優が突然俺の服の裾をつかんできた。初めはちょっとつまむ程度だったが、少しずつつかみ直し、その部分がくしゃくしゃになるぐらいに強くつかんだ。優は俺のほうを向いてうつむいていた。夕焼けで区別はつきにくかったが、彼女の顔は熱く火照っているように見えた。俺は突然の状況に困惑した。そして、彼女が見せるいとおしい表情に、全身が硬直した。鍵を探っていた左手は、カバンの中でフリーズしていた。しゃべることも、動くこともできなかった。しばらくして優は言った。
「もう少しだけ、いっしょにいたいな」
そして、ふっと顔をこちらに向けた。ドキッとした。それはいつもの優の表情ではなかった。本気で、できることならいつまでも、なんなら一生、俺と一緒にいたい、姫路誠の隣にいたい、そう言おうとしているようにも見えた。
ようやく我に返る。俺たちはその場に立ち尽くしていても仕方ないので、少し歩いたところにある小さな公園に行くことにした。先ほどの喫茶店は、わずかな人通りのある細い路地からさらに少し入ったところに位置していたため、近所の人が一人二人行き来することはあったが、その公園はそこからさらに奥へと踏み入った場所にあったため、そのわずか人通りすらなくなってしまう。公園の入口に立つ。ほとんど使われていないことが、錆び付いた遊具から分かる。近所の人が早朝の散歩の時に休憩場所として使用しているのだろうか、三つほど並べられたベンチだけはどれもきれいだった。俺たちはそのベンチに座り、優の願いに付き合うことにした。喫茶店の話の続きで盛り上がる。五分もすれば、先ほど彼女が見せた特別な表情のことは頭の片隅から消え去っていた。