俺、姫路誠に再び大きな変化が訪れたのは、俺が世界を移動してから一か月ほどたったある日のことだった。七月に入り、長かった期末試験も今日でようやく終わりを迎えた。初めて世界を移動したあの時は、授業で学ぶこと全てが頭の中にするすると滞りなく入ってきて、苦労なく理解することができたのだが、今の世界に移動するときにこの点のスペックを落とすよう夢香にお願いしたため、あれから授業内容を理解するのが大変になった。取り残されそうになりながらもなんとか這いつくばり、テスト勉強でわからない部分を克服。テストはまずまずの出来だったと思う。まぁ、いつものようにやったまでなので、取りたてて特別なことでもないのだが。それでもほんのわずかな期間、完璧超人を体験したためか、何とも不思議な感覚である。テスト後の程よい疲労を全身に感じながら下足場を出たとき、誰かに肩を叩かれた。振り返ってみる。
「姫路くん……同じクラスの、姫路誠くん、だよね?」
そこにいたのは、俺と同じクラスの網干優さんだった。彼女はクラスのアイドル的存在としてあまりにも有名で、クラスメイトの名前と顔をあまり覚えていない、というか、覚えようとしない俺ですら、はっきりとその存在を認識していた。成績優秀、眉目秀麗、才色兼備......そんな言葉がぴったりと似合う彼女は、モデルでもやっているかと思えるほどのスレンダーな体型で、足も美しく、ロングストレートの黒髪がまぶしかった。かと思えば成績は常に学年トップを争うほどで、先生もよく授業中に彼女をべた褒めしていた。人当たりもよく、誰とでも親しく話をする。そんなわけで、当然のごとく彼女の周りには多数の男女の集団ができており、教室はいつも賑やかだった。俺はその様子を横目に見ながら、「なんだよ。アイドルに群がるオタクかよ」などと心の中でつぶやいていた。
こんな経緯があるのだから、俺と網干さんとの間に接点はないはず。何か俺に用事でもあるのだろうか。とりあえず、普通のクラスメイトと話すようなノリで言った。
「そうだけど。確かに俺が姫路誠だ」
「あ……えっと、えっとね。今日私、一人で帰るつもりだったんだ。でも偶然姫路くんに会って、私たち、あまり話したことないでしょ? だからせっかくの機会だし、一緒におしゃべりしながら帰らない?」
「あぁ、いいけど」
「ほんと!? ありがとう~。じゃあ帰ろっか」
「お、おぅ」
クラスのアイドル的存在の女の子と二人っきりで帰れる……なんと嬉しいことか!!
とは、思わなかった。そもそも俺は網干さんのことをアイドルなどとは思っていない。あんなの、せいぜいクラスの誰かが勝手につけたあだ名みたいなもんだろう。本人がアイドル呼ばわりされることを気に入っているのなら話は別だが、俺はあくまで一人のクラスメイトとして見ている。
学校を出て、歩きはじめる。網干さんが話しかけてくる。
「ねぇ姫路くん。私がクラスの中でアイドル扱いされていることは知っているよね?」
「まぁな」
「私ね、正直に言うと、ああいう扱いされるの、嫌なんだ。私、普通に勉強して、自分が持つだけの体力で運動して、自分の心に嘘をつかずに人に接する、ただ当たり前のことをしているだけのつもりなんだけど、どうして同じように当たり前の行動をしている他の人には群がらなくて私には群がるんだろうって。実はね? 中学校の時にもあんな感じでみんなから見られてたの。最初は一時的なものかと思っていたけど、そのうちそれが当たり前のことになってしまって。私が人を裏切るとか傷つけるとか、そういうことをしようとしたら自分の中で拒否反応が起こるのと同じように、この当たり前の生活を自分から壊してしまったら、きっとみんなから拒否されてしまうんだろうなぁって。それだけならむしろそうしたいぐらいだけど、その後って絶対「いじめ」が待っているんだよね」
橋を左に曲がった最初の信号で、俺たちは立ち止まる。俺は静かに、時々相槌をうちながら、彼女の話に耳を傾けていた。
「自分で言うのもなんだけど、私みたいなキャラの人って、ちょっとでも変なことしたり、ちょっと誤解を招くようなことをしたりしたら、それがいじめの火種になったりするんだ。実際に中学校の時に、他学年でそういう目に遭った人を見ているから、もしかしたら自分も何かやらかしたらいじめられるんじゃないかって思って」
「でも、今こうやって男女並んで歩いているじゃん? これって、とらえ方によっては特別な関係の男女が並んで歩いているようにも見えて、誤解招くんじゃない?」
「男の子と帰ることは時々あるよ。部活とか、たまたま途中で合流したとか。今日のこれも一応そういうことにしている」
網干さんはため息を吐き、まるで言葉をゴミ箱に流しいれるかのような口調で続けた。
「正直に言うと、あのキャラでいると疲れちゃうんだよね。中学校の時はおそらくそれがきっかけのストレスが原因で、二回倒れた。だから私は決心した。高校ではそういうキャラにならないようにして、のびのびと学校生活を楽しもうって」
「でも結果的に、また同じことが起こってしまったと」
「周りの男の子や女の子が、私の何に魅力を感じたのかは知らないけど……それとも私の中学の時のキャラが抜けきらなかったのかな。私に寄ってたかるようになって、入学して一か月で私の願いは壊れて、それからここまで続いているわけ。これでも中学の時よりは変わったつもりだったんだけどな」
信号が青に変わる。せき止められていた車の流れが、どっと動き出す。それに乗っかるように、俺たちも横断歩道を渡った。
「でもね、そんな中で姫路くん、あなただけは違っていた。あなただけは、いつも私に近づこうとしなかったし、見向きもしなかった。それに、さっき私が下足場で話しかけたときも、普通に接してくれた」
「俺は当たり前のことをしただけだよ。それに、みんなと同じものに熱中するのは嫌だから」
「理由は何でもいい。とにかく、姫路くんだけでも私をみんなと同じ目で見なかった、それだけでとてもうれしい」
俺たちは人通りの少ない路地に入っていく。
「もしかして、みんなの前であのように振る舞っているのは……?」
「うん。あれは全部演技。さすが姫路くん、勘が鋭い! 私たち、実は気が合うのかもしれないねっ」
「えっ……」
さすがにドキッとした。クラスのアイドルが……ではなく、普通の女の子が、こんなひねくれ者の俺と気が合うなんて、そうそうないはずである。俺が彼女に対して差し出した助けの手は、彼女が俺に対して差し出す同情の手となって返ってきた。うれしくなって心躍らせていると、また網干さんが話しかけてきた。
「正直に言ってしまうと、いつも私の周りに集まる人なんてどっか行っちゃえ、とか思ってる。休み時間は二~三人で和やかにおしゃべりしたいの。でも、今の状況じゃあ、そんなことはとても無理だと思う。だからね? その……」
突然、網干さんが俺の前に入った。そして俺に近寄る。……近い。二十センチも離れていないと思う。さすがに誤解を招きかねない行動だと思う。俺は念のため目視で周囲を確認した。幸い誰もこの様子を見ておらず、誰かが来そうな気配もしなかった。彼女はうつむいてもじもじし始める。え、うそ……マジで!? くるのか? そういうことが、あるのか? ここで? 今? ていうか、俺でいいのか? 俺の心臓は急激にフルスロットルを強いられ、変な汗が背中に感じられた。
「これから毎日学校帰りに、ある喫茶店に一緒に来てほしいの。ほかの子はたぶん知らないはずの喫茶店。そこのマスターと知り合いで、これまでも毎日その喫茶店に寄っては愚痴を垂れて学校での鬱憤を晴らしていたんだ。いわば安息の場、ってところかな。今までは話し相手はマスターしかいなくて寂しかったんだけど、姫路くんが来てくれたらもっと楽しくなるかな、って思って。だめ、かな?」
「俺はいいけど……俺でいいのか?」
「あなたしかいないの!! ……姫路くんしか、いないの……」
その目は本気だった。その眼力は、俺を瞬時に納得させるには十分だった。いつか夢香が見せた真剣な表情にも、どこか似ているところがあった。今の網干さんは「クラスのアイドル的存在」なんかではなく、「深刻な悩みを持った普通の女の子」だった。網干さんが再び俺の横に移動する。
「喫茶店までの道は毎日二人で歩いていたら誤解されるかもしれないから、明日からは現地集合ということで。今日はこれから道を教えるついでに中に入ってみようと思うんだけど、時間大丈夫?」
「あぁ、俺は大丈夫だ。ていうか、俺は網干さんとその喫茶店で一緒にいるだけなんだよな。そんなことでいいのか?」
「姫路くんにはこんなこと、って思うことかもしれないけど、私にとってはこれだけですごくうれしい。早速行こっか! それと、私たち二人きりの時は、私のことは優でいいよ。気が合う「仲間」の証ってことで。姫路くんのことも、誠くんって呼んでもいい?」
「構わない」
そして俺たちは、その喫茶店とやらに行くことになった。喫茶店に着くまで、優のカバンは俺の自転車の後ろに載せてあげることにした。
「あぁ、なんだここか! 一度来たことある」
「ほんとに!? 実はここ、お父さんの知り合いが経営してて、顔なじみなんだ」
「そうなのか。俺は確か、趣味で写真撮影していた時にたまたまここを通って、何かいいものが撮れたらなぁ、とか思いながら入ったんだっけ。こんなところ、って言ったら失礼かもしれないけど、これは確かに誰も知らないだろうな」
「そうだったんだ。さあ、早速中に入ろっ!」
優がドアを開ける。カランコロン、と、風情ある鐘の音が聞こえた。まず彼女がその薄暗い空間に足を踏み入れ、その後に自分も続いて入っていった。
「姫路くん……同じクラスの、姫路誠くん、だよね?」
そこにいたのは、俺と同じクラスの網干優さんだった。彼女はクラスのアイドル的存在としてあまりにも有名で、クラスメイトの名前と顔をあまり覚えていない、というか、覚えようとしない俺ですら、はっきりとその存在を認識していた。成績優秀、眉目秀麗、才色兼備......そんな言葉がぴったりと似合う彼女は、モデルでもやっているかと思えるほどのスレンダーな体型で、足も美しく、ロングストレートの黒髪がまぶしかった。かと思えば成績は常に学年トップを争うほどで、先生もよく授業中に彼女をべた褒めしていた。人当たりもよく、誰とでも親しく話をする。そんなわけで、当然のごとく彼女の周りには多数の男女の集団ができており、教室はいつも賑やかだった。俺はその様子を横目に見ながら、「なんだよ。アイドルに群がるオタクかよ」などと心の中でつぶやいていた。
こんな経緯があるのだから、俺と網干さんとの間に接点はないはず。何か俺に用事でもあるのだろうか。とりあえず、普通のクラスメイトと話すようなノリで言った。
「そうだけど。確かに俺が姫路誠だ」
「あ……えっと、えっとね。今日私、一人で帰るつもりだったんだ。でも偶然姫路くんに会って、私たち、あまり話したことないでしょ? だからせっかくの機会だし、一緒におしゃべりしながら帰らない?」
「あぁ、いいけど」
「ほんと!? ありがとう~。じゃあ帰ろっか」
「お、おぅ」
クラスのアイドル的存在の女の子と二人っきりで帰れる……なんと嬉しいことか!!
とは、思わなかった。そもそも俺は網干さんのことをアイドルなどとは思っていない。あんなの、せいぜいクラスの誰かが勝手につけたあだ名みたいなもんだろう。本人がアイドル呼ばわりされることを気に入っているのなら話は別だが、俺はあくまで一人のクラスメイトとして見ている。
学校を出て、歩きはじめる。網干さんが話しかけてくる。
「ねぇ姫路くん。私がクラスの中でアイドル扱いされていることは知っているよね?」
「まぁな」
「私ね、正直に言うと、ああいう扱いされるの、嫌なんだ。私、普通に勉強して、自分が持つだけの体力で運動して、自分の心に嘘をつかずに人に接する、ただ当たり前のことをしているだけのつもりなんだけど、どうして同じように当たり前の行動をしている他の人には群がらなくて私には群がるんだろうって。実はね? 中学校の時にもあんな感じでみんなから見られてたの。最初は一時的なものかと思っていたけど、そのうちそれが当たり前のことになってしまって。私が人を裏切るとか傷つけるとか、そういうことをしようとしたら自分の中で拒否反応が起こるのと同じように、この当たり前の生活を自分から壊してしまったら、きっとみんなから拒否されてしまうんだろうなぁって。それだけならむしろそうしたいぐらいだけど、その後って絶対「いじめ」が待っているんだよね」
橋を左に曲がった最初の信号で、俺たちは立ち止まる。俺は静かに、時々相槌をうちながら、彼女の話に耳を傾けていた。
「自分で言うのもなんだけど、私みたいなキャラの人って、ちょっとでも変なことしたり、ちょっと誤解を招くようなことをしたりしたら、それがいじめの火種になったりするんだ。実際に中学校の時に、他学年でそういう目に遭った人を見ているから、もしかしたら自分も何かやらかしたらいじめられるんじゃないかって思って」
「でも、今こうやって男女並んで歩いているじゃん? これって、とらえ方によっては特別な関係の男女が並んで歩いているようにも見えて、誤解招くんじゃない?」
「男の子と帰ることは時々あるよ。部活とか、たまたま途中で合流したとか。今日のこれも一応そういうことにしている」
網干さんはため息を吐き、まるで言葉をゴミ箱に流しいれるかのような口調で続けた。
「正直に言うと、あのキャラでいると疲れちゃうんだよね。中学校の時はおそらくそれがきっかけのストレスが原因で、二回倒れた。だから私は決心した。高校ではそういうキャラにならないようにして、のびのびと学校生活を楽しもうって」
「でも結果的に、また同じことが起こってしまったと」
「周りの男の子や女の子が、私の何に魅力を感じたのかは知らないけど……それとも私の中学の時のキャラが抜けきらなかったのかな。私に寄ってたかるようになって、入学して一か月で私の願いは壊れて、それからここまで続いているわけ。これでも中学の時よりは変わったつもりだったんだけどな」
信号が青に変わる。せき止められていた車の流れが、どっと動き出す。それに乗っかるように、俺たちも横断歩道を渡った。
「でもね、そんな中で姫路くん、あなただけは違っていた。あなただけは、いつも私に近づこうとしなかったし、見向きもしなかった。それに、さっき私が下足場で話しかけたときも、普通に接してくれた」
「俺は当たり前のことをしただけだよ。それに、みんなと同じものに熱中するのは嫌だから」
「理由は何でもいい。とにかく、姫路くんだけでも私をみんなと同じ目で見なかった、それだけでとてもうれしい」
俺たちは人通りの少ない路地に入っていく。
「もしかして、みんなの前であのように振る舞っているのは……?」
「うん。あれは全部演技。さすが姫路くん、勘が鋭い! 私たち、実は気が合うのかもしれないねっ」
「えっ……」
さすがにドキッとした。クラスのアイドルが……ではなく、普通の女の子が、こんなひねくれ者の俺と気が合うなんて、そうそうないはずである。俺が彼女に対して差し出した助けの手は、彼女が俺に対して差し出す同情の手となって返ってきた。うれしくなって心躍らせていると、また網干さんが話しかけてきた。
「正直に言ってしまうと、いつも私の周りに集まる人なんてどっか行っちゃえ、とか思ってる。休み時間は二~三人で和やかにおしゃべりしたいの。でも、今の状況じゃあ、そんなことはとても無理だと思う。だからね? その……」
突然、網干さんが俺の前に入った。そして俺に近寄る。……近い。二十センチも離れていないと思う。さすがに誤解を招きかねない行動だと思う。俺は念のため目視で周囲を確認した。幸い誰もこの様子を見ておらず、誰かが来そうな気配もしなかった。彼女はうつむいてもじもじし始める。え、うそ……マジで!? くるのか? そういうことが、あるのか? ここで? 今? ていうか、俺でいいのか? 俺の心臓は急激にフルスロットルを強いられ、変な汗が背中に感じられた。
「これから毎日学校帰りに、ある喫茶店に一緒に来てほしいの。ほかの子はたぶん知らないはずの喫茶店。そこのマスターと知り合いで、これまでも毎日その喫茶店に寄っては愚痴を垂れて学校での鬱憤を晴らしていたんだ。いわば安息の場、ってところかな。今までは話し相手はマスターしかいなくて寂しかったんだけど、姫路くんが来てくれたらもっと楽しくなるかな、って思って。だめ、かな?」
「俺はいいけど……俺でいいのか?」
「あなたしかいないの!! ……姫路くんしか、いないの……」
その目は本気だった。その眼力は、俺を瞬時に納得させるには十分だった。いつか夢香が見せた真剣な表情にも、どこか似ているところがあった。今の網干さんは「クラスのアイドル的存在」なんかではなく、「深刻な悩みを持った普通の女の子」だった。網干さんが再び俺の横に移動する。
「喫茶店までの道は毎日二人で歩いていたら誤解されるかもしれないから、明日からは現地集合ということで。今日はこれから道を教えるついでに中に入ってみようと思うんだけど、時間大丈夫?」
「あぁ、俺は大丈夫だ。ていうか、俺は網干さんとその喫茶店で一緒にいるだけなんだよな。そんなことでいいのか?」
「姫路くんにはこんなこと、って思うことかもしれないけど、私にとってはこれだけですごくうれしい。早速行こっか! それと、私たち二人きりの時は、私のことは優でいいよ。気が合う「仲間」の証ってことで。姫路くんのことも、誠くんって呼んでもいい?」
「構わない」
そして俺たちは、その喫茶店とやらに行くことになった。喫茶店に着くまで、優のカバンは俺の自転車の後ろに載せてあげることにした。
「あぁ、なんだここか! 一度来たことある」
「ほんとに!? 実はここ、お父さんの知り合いが経営してて、顔なじみなんだ」
「そうなのか。俺は確か、趣味で写真撮影していた時にたまたまここを通って、何かいいものが撮れたらなぁ、とか思いながら入ったんだっけ。こんなところ、って言ったら失礼かもしれないけど、これは確かに誰も知らないだろうな」
「そうだったんだ。さあ、早速中に入ろっ!」
優がドアを開ける。カランコロン、と、風情ある鐘の音が聞こえた。まず彼女がその薄暗い空間に足を踏み入れ、その後に自分も続いて入っていった。