俺は、この結論に至るきっかけとなる言葉を授けてくれたマスターにお礼を言うべく、喫茶店に向かった。もしかして、扉の向こうに瑠香がいるのでは、と、若干の高揚感を抱いて重い木の扉を押した。しかし、そこにいたのはマスターと、以前ここで喧嘩をしていた男女であった。その男女は、この前喧嘩していたのがまるで嘘であるかのように、親しく会話をしていた。マスターは、俺に静かに目配せをし、奥のテーブルに導いた。
「マスター、この前はありがとうございました。マスターの言葉のおかげで、ちゃんと決断することができました」
「……そうかい、よかったね」
マスターは、俺にそんな話したっけ?とでも言わんばかりに、まるで他人事のような淡白な返事を返すにとどめ、静かにカウンターの奥に戻っていった。
「マスター、こんにちは」
俺がコーヒーを飲んでこの空間の空気と同化しようとしたころ、その空気を引き裂くかのようにカランコロンという鐘の音と耳障りなドアの軋みの音とともに喫茶店の入口のドアが開いた。俺が座っている位置からは、誰が入ってきたのかは見えない。マスターは、その来客に対して、俺の方向に目配せをし、俺と相席になるようにとでも言っているようであった。
「……あれ?けーくん?」
朗らかな女性の声が俺に向かう。俺はコーヒーカップを静かに置き、その女性に対して紳士的な対応を……けーくん?いま、俺のことを「けーくん」と呼んだか?「けーくん」という呼び名を認めているのは、ただ一人だけだった。俺は慌ててその女性の顔を見る。
「えっ……えっ……」
俺は、言語を発することができなくなった。目の前にいるその女性が間違いなく「瑠香」で、今までこの世界から実体がすべて抹消されていた「瑠香」で、俺が最も愛すると決断した「瑠香」で。様々な感情が交錯し、俺の脳内は「瑠香」でいっぱいになり、ついに涙が流れ始めた。
「ちょっ、けーくん!?どしたの急に泣き出して?また何か嫌なことでもあった?私が聞いてあげるよ?」
そっか……瑠香は、俺が瑠香の存在を認識できない世界にいたことに気づいていないのか……瑠香は、俺が悩み、苦しんだこの5年間も、普通に生活していて、おそらく「恵吾」とうまくやっていたんだろう。きっと、毎週のように「恵吾」と心身を一体化させ、快感と幸福に満ちた人生を送っていたんだろう。虚無と孤独の5年間を過ごした俺とは正反対で、瑠香自身は決して悲しい思いはしてなくて、「恵吾」とともに幸せな人生を歩んでいた、彼女から伝わるその思いに、俺は激しく安堵し、ますます涙が止まらなくなる。体が本能的に「瑠香」を求めている。俺はゆっくりと立ち上がり、静かに瑠香を抱きしめた。
「何があったかはわかんないけど……もう、大丈夫だよ。瑠香は、ここにいるからね。……って、なんか、昔同じようなこと言ったような気がするね、えへへ」
……ったく、瑠香はなんでそんなに呑気でいられるんだよ。こっちは瑠香がいなくて人生の絶望を5年も味わい続けたっていうのに。俺がいきなり泣き出したり抱き着いたりしてもケロッとしてどこまでも受け入れてくれる。瑠香は昔からそういう性格で。そんな瑠香のことが……めちゃくちゃ好きなんだよちくしょう。
感情が収まってきたころ、俺は思い切って、瑠香にこの5年間のことのすべてを話した。普通の人が聞けば「すごくよく作りこまれた作り話だなハハハッ」であっさり流されてしまうところだったが、瑠香は俺の話に真剣に耳を傾け、時折涙を流しながら最後まで聞いてくれた。そして、静かに俺の横に移動し、俺のことをそっと抱き寄せた。今の俺は、男としては情けないが、完全に瑠香にリードされ、心も体も瑠香に委ねてしまっている。瑠香は、まるで自分がお姉さんにでもなったかのようなこの状況を楽しんでいるような様子を見せながらも、混乱している俺をいつもと同じように受け入れてくれた。
「ねぇ?これからうちに来ない?今夜、うち両親いないから、泊まっていきなよ。再会記念、ってことでもないけど、けーくんにとって久しぶりに、しよっか」
「こら、女の子のほうからそういうこと言っちゃダメだぞ。俺にめちゃくちゃにされたらどうするんだ」
「え~、だってけーくん、そういうことしないでしょ?けーくん、いつも優しいから、私もすごく安心してやれるんだよ?もう、そうやって言うんなら、けーくんのほうから誘ってよ」
「……いや、瑠香の今の言葉聞いて、さっきの俺の発言取り消したくなった。誘ってくれてありがとな。今夜、お邪魔させてもらうよ」
「……けーくんの都合が許すなら、夜じゃなくて、今すぐ、うちに来てほしいな。なんか今日は、じっくりしたい」
そして俺たちは喫茶店を後にし、そのまま瑠香の家に向かった。親には「友達の家で勉強会して、そのまま泊まっていく」と、適当に嘘をついておいた。
俺たちは瑠香の家路をともに歩いていた。以前この道を一人で歩き、いつまでたっても瑠香の家にたどり着かなかったあの時の光景が脳裏をよぎる。
「さぁ、着いたよ、私の家」
「ちゃんと……瑠香の家がある……」
最後の曲がり角を曲がり、それからいつまでたっても現れなかった瑠香の家は、曲がり角を曲がってすぐのところに、確かに存在していた。決して大きな家ではないけれど、どこか家庭的な雰囲気が漂うそのたたずまいは、俺の過去の記憶と相違なくあって、まだ瑠香と家族になったわけではないのに、大きな安心感を覚えた。
行為は、風呂で軽く体を流したあとすぐに始まった。
「けーくん、私がいない世界では、こういうことは全くしなかったってことだよね?一人でずっとしてたの?」
「いや、あの時の俺は、瑠香と再会できるあらゆる方法を考えてて、性的なこととか、それどころじゃなかった。それに、瑠香がいない世界でそういうことをしたところで、それ自体に何の意味もないと思って、暇つぶしでやろうとも思えなかった」
「え!?ってことは、今日までの5年間、一度もしなかったの?」
「あぁ。自分でも本当にびっくりなんだが、5年もの間、一度も。俺の「もの」からオシッコ以外のものが出てくるのは5年ぶりだな」
「へぇ。じゃあ、その5年ぶりの行為を私にくれたんだね。光栄だな……私、幸せ者だな……」
瑠香は、「幸せ」という言葉を何度も反復し、はにかみつつ幸せそうな表情で俺の上にまたがり、腰を上下に振った。瑠香の目には、涙が浮かんでいた。
「瑠香は、「恵吾」としてたのか?」
「うん。高校時代はほぼ毎週。でもね……いま目の前にいるのじゃない「けーくん」としてて、すごく気持ちよかったし、それはそれで幸せだったんだけど、なんか違和感があったんだよね。それが全然わからなくて、ここ1年ぐらいはむしろあまり気持ちよくなかったんだけど、いま目の前にいるけーくんの話聞いて、全部納得した。だって……いまこうやってして、今までした中で一番気持ちいいんだもん」
目の前で顔を真っ赤にして上気させる瑠香は、5年ぶりに見かけたということもあり、今まで俺が見てきた人間の中で一番幸せそうだった。
「5年分の幸せ……おすそ分けしてあげるね」
そう言った直後、俺と瑠香は同時に絶頂を迎えた。
結局その日、夕食や風呂などを挟みつつ、数えるのが面倒になるほどたくさん気持ちよくなった。二人の5年分の愛を、お互いに分け合った。それから後も、俺たちはほぼ毎週心と体の強いつながりをもった。それから数年後、俺たちは、人生やり直しを終える直前に少女から忠告されたとおり、二人の間の新しい命を授かることとなった。
「マスター、この前はありがとうございました。マスターの言葉のおかげで、ちゃんと決断することができました」
「……そうかい、よかったね」
マスターは、俺にそんな話したっけ?とでも言わんばかりに、まるで他人事のような淡白な返事を返すにとどめ、静かにカウンターの奥に戻っていった。
「マスター、こんにちは」
俺がコーヒーを飲んでこの空間の空気と同化しようとしたころ、その空気を引き裂くかのようにカランコロンという鐘の音と耳障りなドアの軋みの音とともに喫茶店の入口のドアが開いた。俺が座っている位置からは、誰が入ってきたのかは見えない。マスターは、その来客に対して、俺の方向に目配せをし、俺と相席になるようにとでも言っているようであった。
「……あれ?けーくん?」
朗らかな女性の声が俺に向かう。俺はコーヒーカップを静かに置き、その女性に対して紳士的な対応を……けーくん?いま、俺のことを「けーくん」と呼んだか?「けーくん」という呼び名を認めているのは、ただ一人だけだった。俺は慌ててその女性の顔を見る。
「えっ……えっ……」
俺は、言語を発することができなくなった。目の前にいるその女性が間違いなく「瑠香」で、今までこの世界から実体がすべて抹消されていた「瑠香」で、俺が最も愛すると決断した「瑠香」で。様々な感情が交錯し、俺の脳内は「瑠香」でいっぱいになり、ついに涙が流れ始めた。
「ちょっ、けーくん!?どしたの急に泣き出して?また何か嫌なことでもあった?私が聞いてあげるよ?」
そっか……瑠香は、俺が瑠香の存在を認識できない世界にいたことに気づいていないのか……瑠香は、俺が悩み、苦しんだこの5年間も、普通に生活していて、おそらく「恵吾」とうまくやっていたんだろう。きっと、毎週のように「恵吾」と心身を一体化させ、快感と幸福に満ちた人生を送っていたんだろう。虚無と孤独の5年間を過ごした俺とは正反対で、瑠香自身は決して悲しい思いはしてなくて、「恵吾」とともに幸せな人生を歩んでいた、彼女から伝わるその思いに、俺は激しく安堵し、ますます涙が止まらなくなる。体が本能的に「瑠香」を求めている。俺はゆっくりと立ち上がり、静かに瑠香を抱きしめた。
「何があったかはわかんないけど……もう、大丈夫だよ。瑠香は、ここにいるからね。……って、なんか、昔同じようなこと言ったような気がするね、えへへ」
……ったく、瑠香はなんでそんなに呑気でいられるんだよ。こっちは瑠香がいなくて人生の絶望を5年も味わい続けたっていうのに。俺がいきなり泣き出したり抱き着いたりしてもケロッとしてどこまでも受け入れてくれる。瑠香は昔からそういう性格で。そんな瑠香のことが……めちゃくちゃ好きなんだよちくしょう。
感情が収まってきたころ、俺は思い切って、瑠香にこの5年間のことのすべてを話した。普通の人が聞けば「すごくよく作りこまれた作り話だなハハハッ」であっさり流されてしまうところだったが、瑠香は俺の話に真剣に耳を傾け、時折涙を流しながら最後まで聞いてくれた。そして、静かに俺の横に移動し、俺のことをそっと抱き寄せた。今の俺は、男としては情けないが、完全に瑠香にリードされ、心も体も瑠香に委ねてしまっている。瑠香は、まるで自分がお姉さんにでもなったかのようなこの状況を楽しんでいるような様子を見せながらも、混乱している俺をいつもと同じように受け入れてくれた。
「ねぇ?これからうちに来ない?今夜、うち両親いないから、泊まっていきなよ。再会記念、ってことでもないけど、けーくんにとって久しぶりに、しよっか」
「こら、女の子のほうからそういうこと言っちゃダメだぞ。俺にめちゃくちゃにされたらどうするんだ」
「え~、だってけーくん、そういうことしないでしょ?けーくん、いつも優しいから、私もすごく安心してやれるんだよ?もう、そうやって言うんなら、けーくんのほうから誘ってよ」
「……いや、瑠香の今の言葉聞いて、さっきの俺の発言取り消したくなった。誘ってくれてありがとな。今夜、お邪魔させてもらうよ」
「……けーくんの都合が許すなら、夜じゃなくて、今すぐ、うちに来てほしいな。なんか今日は、じっくりしたい」
そして俺たちは喫茶店を後にし、そのまま瑠香の家に向かった。親には「友達の家で勉強会して、そのまま泊まっていく」と、適当に嘘をついておいた。
俺たちは瑠香の家路をともに歩いていた。以前この道を一人で歩き、いつまでたっても瑠香の家にたどり着かなかったあの時の光景が脳裏をよぎる。
「さぁ、着いたよ、私の家」
「ちゃんと……瑠香の家がある……」
最後の曲がり角を曲がり、それからいつまでたっても現れなかった瑠香の家は、曲がり角を曲がってすぐのところに、確かに存在していた。決して大きな家ではないけれど、どこか家庭的な雰囲気が漂うそのたたずまいは、俺の過去の記憶と相違なくあって、まだ瑠香と家族になったわけではないのに、大きな安心感を覚えた。
行為は、風呂で軽く体を流したあとすぐに始まった。
「けーくん、私がいない世界では、こういうことは全くしなかったってことだよね?一人でずっとしてたの?」
「いや、あの時の俺は、瑠香と再会できるあらゆる方法を考えてて、性的なこととか、それどころじゃなかった。それに、瑠香がいない世界でそういうことをしたところで、それ自体に何の意味もないと思って、暇つぶしでやろうとも思えなかった」
「え!?ってことは、今日までの5年間、一度もしなかったの?」
「あぁ。自分でも本当にびっくりなんだが、5年もの間、一度も。俺の「もの」からオシッコ以外のものが出てくるのは5年ぶりだな」
「へぇ。じゃあ、その5年ぶりの行為を私にくれたんだね。光栄だな……私、幸せ者だな……」
瑠香は、「幸せ」という言葉を何度も反復し、はにかみつつ幸せそうな表情で俺の上にまたがり、腰を上下に振った。瑠香の目には、涙が浮かんでいた。
「瑠香は、「恵吾」としてたのか?」
「うん。高校時代はほぼ毎週。でもね……いま目の前にいるのじゃない「けーくん」としてて、すごく気持ちよかったし、それはそれで幸せだったんだけど、なんか違和感があったんだよね。それが全然わからなくて、ここ1年ぐらいはむしろあまり気持ちよくなかったんだけど、いま目の前にいるけーくんの話聞いて、全部納得した。だって……いまこうやってして、今までした中で一番気持ちいいんだもん」
目の前で顔を真っ赤にして上気させる瑠香は、5年ぶりに見かけたということもあり、今まで俺が見てきた人間の中で一番幸せそうだった。
「5年分の幸せ……おすそ分けしてあげるね」
そう言った直後、俺と瑠香は同時に絶頂を迎えた。
結局その日、夕食や風呂などを挟みつつ、数えるのが面倒になるほどたくさん気持ちよくなった。二人の5年分の愛を、お互いに分け合った。それから後も、俺たちはほぼ毎週心と体の強いつながりをもった。それから数年後、俺たちは、人生やり直しを終える直前に少女から忠告されたとおり、二人の間の新しい命を授かることとなった。
※この物語はフィクションです。