気が付くと、俺は真っ暗な空間に投げ出されていた。そこが暗い空間であることが認識できており、自分の思う通りに手足が動いている感覚がするため、おそらく意識は本来あるべき位置にあるのだと思う。しかし、その空間はあまりにも暗く、自分という存在が確かにここに存在しているにもかかわらず、実は俺は存在していないのではないかと錯覚すらしてしまうほどであった。
ふと、自分の目の前に少女が立っているのが確認できた。少女がそこにいることをこの目ではっきり認識できるのだから、何らかの光があるはずなのだが、なぜか自分の体は相変わらず暗黒世界に吸い込まれたままだった。首は上下左右に動かすことができるので、まるで自分が首から上だけの存在であるかのような、変な感覚に陥る。
目の前の少女は確かに見覚えがあった。あれは忘れもしない、俺にこの世界の「真理」を告げた直後、俺の目の前で轢かれて亡くなった少女だった。そしてなぜだろう、今ならはっきり思い出すことができる。あの激しい雷雨の日、俺の目の前で雷雨ではない原因で目の前で亡くなった少女の顔には、たしかにモザイクがかかっていたはずなのに、あの日のことを思い出す俺の脳が想起する少女の顔には、モザイクなどかかっていなかった。そして俺はさらにその前の記憶まで思い出すことができるようになっていることに気が付いた。その少女は、人生やり直しを行う前、すなわち瑠香と結ばれるルートに進まなかった俺が親しく接し、そして誰よりも好きだった女の子であること。その少女が、人生やり直しを行う直前、俺の軽率な発言によって不幸のどん底に突き落とされ、俺によって引き起こされた不慮の事故で亡くなった女の子であること。
「ようやく会えたね、安藤、恵吾くん。といっても……正確には二度目……いや、最初の世界を入れると、三度目だね」
「リドウ、サナエ……」
「やっと、思い出せたんだね。それは、私の名前。私の名前は、理堂早苗、あなたと同い年で、あなたがこれまで、理由がわからないながらもずっとその存在を追い求め続けてきた女の子。最初の世界で、あなたが唯一大好きになった女の子で、あなたが世界中の誰よりも愛してくれてた女の子。そして……そんなあなたのことが大好きで、今でも心の底からあなたのことを愛している、女の子です」
俺は、あまりに突然のことで思考が全く追い付いていなかった。つまり、理堂早苗は、死んだはずの早苗は……今、俺の目の前にいる、ということなのか?そして、俺にこの世界の真理を告げたあの少女は、早苗だったというのか……?にわかに信じがたい話がいま、俺の目の前で繰り広げられていた。
「早苗は……まだ、生きているのか……?」
早苗は、首を横に振った。
「早苗は……死んじゃったのか……?」
「うん。恵吾くんがたった今思い出したことは全部本当で、私は事故で、悲しいことなんだけど、恵吾くんの目の前で、死にました。大型トラックに文字通り挽き肉にされたから、あの時恵吾くんが見ていたのは、すでに心臓が止まっていた私でした。で、そのあとなのかな、私が人生やり直しサービスに出会ったのは。死んだはずなのにまだ意識がちゃんと残ってて、しかもなんかタイムスリップしたかのようで本当びっくりしたよ。でね、実はその時に恵吾くんも同じタイミングで人生やり直しサービスに出会っていれば、ここまでややこしいことにはならなかったんだけど、恵吾くんはあのあと翌日の昼頃になるまで人生やり直しサービスに出会うことができなかった。実は私と恵吾くんのやり直し世界の移動経路は全く同じで、同じ世界に二人がいれば記憶をなくすことはなかったんだけど、あの数時間の時間差が結構大きかったみたいで、恵吾くんが私のいるやり直し世界に移動してきた直後に私が別のやり直し世界に移動したり、私が別のやり直し世界に移動した直後に恵吾くんが私の元居た世界にやってきたり。世界が違うとその人に関する記憶はすぐあいまいになってしまって、そういうことがずっと続いたせいで、恵吾くんはいつしか私の記憶をなくしてしまって……あの日、私が恵吾くんにこの世界の真理について教えたことがあったと思うんだけど、あの時にはすでに恵吾くんが私の記憶をなくしてしばらくたっていた上に、私は別の世界から一時的に話しかけにきてたから、あの時の恵吾くんは私を理堂早苗と認識することができなかった」
「ていうか、あの時の話となんか違うような気がするんだけど。あの時の話だと、たしか早苗は実体としては若かったけど、すでに存在としての寿命を迎えてて、それであのあとバスに轢かれてしまったんじゃ……」
「あぁ、あれはね、どうやら私の間違いだったみたい。私もあとからこの世界の「本当の本当」の真理を知って、恵吾くんにデタラメなこと言っちゃったなあ、って、すごく後悔してた。もう遅いかもしれないけど、今こうやって会うことができたし、ちゃんと言うね。このことは、恵吾くんにはちゃんと伝えたいし、つらいかもしれないけど、しっかり受け止めてほしいと思ってる。言って、いい?」
さながら愛の告白を始める女の子のそぶりを見せる早苗にドキドキしながら、俺はうなずいた。早苗はゆっくりと話を続けた。
「人間がいつこの世界に生まれて、いつ死ぬかっていうのは、存在やら実体やらといった、この前私が話したようなややこしい仕組みなんかじゃなくて、もっとシンプルに、始まりと終わりのタイミングだけ決まってるだけなの。だから、私たちがどの世界で……何度やり直しをしたとしても……終わりのタイミングが来たら人は死ぬんだよ。私の場合、それは生後16年10か月4時間32分56秒と、決まっていた。もちろん、ある世界ではそれより前に死ぬこともあったけど、たとえこの身に全く問題がなかったとしても、原因はどうであれそこでぽっくり死んだ。あの時トラックに轢かれて死んだのも、恵吾くんのせいとかじゃなくて、あの瞬間に生まれてから16年10か月4時間32分56秒経って、起こるべくして起こったもので、あれは神様によって勝手に決められてたもの」
ふと、あの時の早苗の凄惨な死体が脳裏をよぎり、全身を強く痛めつける。刃物などで傷つけられたわけでもないのに、体中が激しい痛みに襲われる。俺はそれをどうにかこらえて早苗に尋ねた。
「じゃあ、今まで俺が見てきた……俺たちが見てきた「やり直しの人生」っていうのは、一体何だったんだ?俺は今まで何度も人生のやり直しをやってきたけど、あれは何だったんだ?」
「それはね、結局のところ神様が私たちに夢というか、希望のようなものを見せてくれてただけみたい。私たちのような選ばれた人が、それまでの人生に未練があったりしたときに、もう一度その世界をそっくり再現して、その世界で私たちを再び生きさせようとする、言ってみれば神様の粋な計らいで、言ってみれば余計なおせっかいで、言ってみれば……地獄だった。そして、人生のやり直しが発動するのは、人が死んだとき、あるいは死を強く望んだ時。それらの状況と似たような心理状態になった時にも発動するらしい。実際、恵吾くんはこんな年齢になるまで生き続けたから、少なくとも神様によって決められた寿命は十数年ではない。でも、きっと今まで何度も死にたいとか、激しく心が傷つけられたことがあったと思う。おそらく、それが原因だと思う。あと……この世界がこんなにおかしくなってしまったのも、何度も何度もやり直し……すなわちコピーを繰り返すうちにこの世界の情報がだんだん劣化していったんだろうね」
俺は、ここでようやく、すべてのつじつまがあったことを感じ取ることができた。体の奥底で、鍵穴が「カチャン」と、音を立てて回った音がした。早苗は続けた。
「私は、今説明した事実を知って以降、人生のやり直しをすることはできなくなった。16年10か月4時間32分56秒経って死んだとき、もう人生のやり直しをすることができなくなっていた。恵吾くんも、この夢みたいなものから覚めたら、もう世界の移動はできなくなる。恵吾くんの寿命がどのくらいかは私にはわからないけど、「その時」がきても人生のやり直しはできないし、どれだけ嫌なことがあって、どれだけ人生のやり直しを強く望んでも、人生をやり直すことは決してできないよ……」
「俺は……この後どこへ行くんだ?最後の人生やり直しか?それとも、さっきまでいた世界、なのか?」
「それは私にもわからない。ただ、やり直し前に限りなく近い世界に巻き戻るのは確か。だから今までみたいに世界の崩壊とか不可解な現象とかは怒らない。ただ、それが高校時代か、中学時代か、それよりも前なのかはわからないけど」
「瑠香はどうするんだよ……瑠香との日々はどうなるんだよ。瑠香のお腹の中の子はどうなるんだよ……ッ!」
俺は、自らの口調がいつか目の前の少女を間接的に殺した時と同じものに変化しつつあることに気付きつつも、その感情の高ぶりを自らの意思で抑えることができなくなっていた。早苗は、少し物悲しそうに言った。
「……そっか。恵吾くん、瑠香ちゃんと結婚して、瑠香ちゃんとの赤ちゃんも作ったんだ。中学のあの時、私が恵吾くんのために瑠香ちゃんと仲良くなって、話すきっかけを作ってあげたの、覚えてるよね?へぇ、そっか……私が助けたおかげで、こんなに幸せになれたんだ……なんか、ちょっと、うらやましいな」
早苗の瞳から、光が徐々に失われていく。早苗は、物悲しさをさらに増してつづけた。
「でも、残念ながら、恵吾くんはそこへ戻ることはできない。もう一度、過去のあるタイミングからスタート。幸せな日々も全部リセット。それがこの事実を知った人の宿命なんだよ」
俺は今、目の前の女から、その事実を自らの意思に反して強制的に聞かされ、俺がこれまで長い時間をかけて築き上げてきた瑠香との幸せな日々を、一瞬にして破壊された。俺は、目の前の女を、いつかと同じような残酷なやり方で、殺したいと思った。しかし、次の早苗の言葉でそれは踏みとどまった。
「でもね、今までの記憶は全部残るし、これまでのやり直しみたいに突然変異的な感じで思ってたことと違うことが起こる、なんてことは決してないから、記憶を頼りに同じ道をたどっていけば、そのあとの結末は絶対に今と同じものになる。これはこの世界の「本当の真理」を全部知ってる私自身が保証する。だからどうか、これまでの人生をぶち壊しにされた、とは思わないでほしい……」
早苗は、静かに泣いていた。間接的とはいえ、自らを殺した相手を、ここまで案じ、しかも幸せを後押ししようとしてくれるその姿に、俺は、瑠香に対するものとは別の愛情が沸き起こってきた。「早苗を守りたい」と、純粋に思った。
「今、俺の目の前にいる早苗は……言ってみれば仮の姿ってことだよな……?やり直し前の世界に戻ったら早苗がいる、ってことはないのか……?」
「残念だけど、それはないよ……今の私は、すでに16年10か月4時間32分56秒以上経っていて、さっきも言った通り、もうやり直しはできない。誰のどの世界にも、私が「実体」として現れることは、もうないよ……」
「やだよ……早苗が消えてしまうなんて……早苗は、不幸のどん底にあるときも唯一掌を返さずに俺に寄り添ってくれた、ただ一人の心のよりどころなのに……俺にとって、瑠香よりずっとずっとかけがえのない、大切な人なのに、消えてしまうなんて……そんなのあんまりだよ」
「もうっ、ばかね。何告白みたいなこと言ってるの。そういうことは瑠香ちゃんに言ってあげなさい。でも、私も一つだけわがままを聞いてもらえるとしたら、恵吾くんに「好き」って言ってほしい。心の底からの言葉じゃなくていい。恵吾くんの口から、私に対する「好き」を聞きたい」
「でも……」
「でもじゃないの!たしかに実体としての私はもうすぐなくなっちゃうけど、恵吾くんが私のことを忘れない限り、「存在」としての私は永遠に残り続ける。だから、私のことを忘れないようにするためのおまじないだと思って、言って、ほしいな」
俺は意を決し、その感情が瑠香に対するものとは異なっていることを心の中で確認し、静かに早苗を抱きしめた。
「好きだよ、早苗」
早苗は一瞬ぶるっと震え、まもなく大泣きし始めた。俺の胸元に顔をうずめ、泣き叫ぶ早苗の最後の心の叫びが、俺の体を震わせる。好きだ、大好きだ、愛してる……俺は、自分でも何回言ったかわからないほど、思いつく限りの早苗に対するありったけの愛の言葉を口にした。早苗はその一言一言に激しく嗚咽を漏らし、声がガラガラになるまで泣き続けた。まもなくお互いの体が一体化しようかと感じ始めたころ、徐々に意識が遠くなり、全身の感覚が希薄になっていった。俺たちは、音も光もない暗黒の世界でふたり、眠りについた。
ふと、自分の目の前に少女が立っているのが確認できた。少女がそこにいることをこの目ではっきり認識できるのだから、何らかの光があるはずなのだが、なぜか自分の体は相変わらず暗黒世界に吸い込まれたままだった。首は上下左右に動かすことができるので、まるで自分が首から上だけの存在であるかのような、変な感覚に陥る。
目の前の少女は確かに見覚えがあった。あれは忘れもしない、俺にこの世界の「真理」を告げた直後、俺の目の前で轢かれて亡くなった少女だった。そしてなぜだろう、今ならはっきり思い出すことができる。あの激しい雷雨の日、俺の目の前で雷雨ではない原因で目の前で亡くなった少女の顔には、たしかにモザイクがかかっていたはずなのに、あの日のことを思い出す俺の脳が想起する少女の顔には、モザイクなどかかっていなかった。そして俺はさらにその前の記憶まで思い出すことができるようになっていることに気が付いた。その少女は、人生やり直しを行う前、すなわち瑠香と結ばれるルートに進まなかった俺が親しく接し、そして誰よりも好きだった女の子であること。その少女が、人生やり直しを行う直前、俺の軽率な発言によって不幸のどん底に突き落とされ、俺によって引き起こされた不慮の事故で亡くなった女の子であること。
「ようやく会えたね、安藤、恵吾くん。といっても……正確には二度目……いや、最初の世界を入れると、三度目だね」
「リドウ、サナエ……」
「やっと、思い出せたんだね。それは、私の名前。私の名前は、理堂早苗、あなたと同い年で、あなたがこれまで、理由がわからないながらもずっとその存在を追い求め続けてきた女の子。最初の世界で、あなたが唯一大好きになった女の子で、あなたが世界中の誰よりも愛してくれてた女の子。そして……そんなあなたのことが大好きで、今でも心の底からあなたのことを愛している、女の子です」
俺は、あまりに突然のことで思考が全く追い付いていなかった。つまり、理堂早苗は、死んだはずの早苗は……今、俺の目の前にいる、ということなのか?そして、俺にこの世界の真理を告げたあの少女は、早苗だったというのか……?にわかに信じがたい話がいま、俺の目の前で繰り広げられていた。
「早苗は……まだ、生きているのか……?」
早苗は、首を横に振った。
「早苗は……死んじゃったのか……?」
「うん。恵吾くんがたった今思い出したことは全部本当で、私は事故で、悲しいことなんだけど、恵吾くんの目の前で、死にました。大型トラックに文字通り挽き肉にされたから、あの時恵吾くんが見ていたのは、すでに心臓が止まっていた私でした。で、そのあとなのかな、私が人生やり直しサービスに出会ったのは。死んだはずなのにまだ意識がちゃんと残ってて、しかもなんかタイムスリップしたかのようで本当びっくりしたよ。でね、実はその時に恵吾くんも同じタイミングで人生やり直しサービスに出会っていれば、ここまでややこしいことにはならなかったんだけど、恵吾くんはあのあと翌日の昼頃になるまで人生やり直しサービスに出会うことができなかった。実は私と恵吾くんのやり直し世界の移動経路は全く同じで、同じ世界に二人がいれば記憶をなくすことはなかったんだけど、あの数時間の時間差が結構大きかったみたいで、恵吾くんが私のいるやり直し世界に移動してきた直後に私が別のやり直し世界に移動したり、私が別のやり直し世界に移動した直後に恵吾くんが私の元居た世界にやってきたり。世界が違うとその人に関する記憶はすぐあいまいになってしまって、そういうことがずっと続いたせいで、恵吾くんはいつしか私の記憶をなくしてしまって……あの日、私が恵吾くんにこの世界の真理について教えたことがあったと思うんだけど、あの時にはすでに恵吾くんが私の記憶をなくしてしばらくたっていた上に、私は別の世界から一時的に話しかけにきてたから、あの時の恵吾くんは私を理堂早苗と認識することができなかった」
「ていうか、あの時の話となんか違うような気がするんだけど。あの時の話だと、たしか早苗は実体としては若かったけど、すでに存在としての寿命を迎えてて、それであのあとバスに轢かれてしまったんじゃ……」
「あぁ、あれはね、どうやら私の間違いだったみたい。私もあとからこの世界の「本当の本当」の真理を知って、恵吾くんにデタラメなこと言っちゃったなあ、って、すごく後悔してた。もう遅いかもしれないけど、今こうやって会うことができたし、ちゃんと言うね。このことは、恵吾くんにはちゃんと伝えたいし、つらいかもしれないけど、しっかり受け止めてほしいと思ってる。言って、いい?」
さながら愛の告白を始める女の子のそぶりを見せる早苗にドキドキしながら、俺はうなずいた。早苗はゆっくりと話を続けた。
「人間がいつこの世界に生まれて、いつ死ぬかっていうのは、存在やら実体やらといった、この前私が話したようなややこしい仕組みなんかじゃなくて、もっとシンプルに、始まりと終わりのタイミングだけ決まってるだけなの。だから、私たちがどの世界で……何度やり直しをしたとしても……終わりのタイミングが来たら人は死ぬんだよ。私の場合、それは生後16年10か月4時間32分56秒と、決まっていた。もちろん、ある世界ではそれより前に死ぬこともあったけど、たとえこの身に全く問題がなかったとしても、原因はどうであれそこでぽっくり死んだ。あの時トラックに轢かれて死んだのも、恵吾くんのせいとかじゃなくて、あの瞬間に生まれてから16年10か月4時間32分56秒経って、起こるべくして起こったもので、あれは神様によって勝手に決められてたもの」
ふと、あの時の早苗の凄惨な死体が脳裏をよぎり、全身を強く痛めつける。刃物などで傷つけられたわけでもないのに、体中が激しい痛みに襲われる。俺はそれをどうにかこらえて早苗に尋ねた。
「じゃあ、今まで俺が見てきた……俺たちが見てきた「やり直しの人生」っていうのは、一体何だったんだ?俺は今まで何度も人生のやり直しをやってきたけど、あれは何だったんだ?」
「それはね、結局のところ神様が私たちに夢というか、希望のようなものを見せてくれてただけみたい。私たちのような選ばれた人が、それまでの人生に未練があったりしたときに、もう一度その世界をそっくり再現して、その世界で私たちを再び生きさせようとする、言ってみれば神様の粋な計らいで、言ってみれば余計なおせっかいで、言ってみれば……地獄だった。そして、人生のやり直しが発動するのは、人が死んだとき、あるいは死を強く望んだ時。それらの状況と似たような心理状態になった時にも発動するらしい。実際、恵吾くんはこんな年齢になるまで生き続けたから、少なくとも神様によって決められた寿命は十数年ではない。でも、きっと今まで何度も死にたいとか、激しく心が傷つけられたことがあったと思う。おそらく、それが原因だと思う。あと……この世界がこんなにおかしくなってしまったのも、何度も何度もやり直し……すなわちコピーを繰り返すうちにこの世界の情報がだんだん劣化していったんだろうね」
俺は、ここでようやく、すべてのつじつまがあったことを感じ取ることができた。体の奥底で、鍵穴が「カチャン」と、音を立てて回った音がした。早苗は続けた。
「私は、今説明した事実を知って以降、人生のやり直しをすることはできなくなった。16年10か月4時間32分56秒経って死んだとき、もう人生のやり直しをすることができなくなっていた。恵吾くんも、この夢みたいなものから覚めたら、もう世界の移動はできなくなる。恵吾くんの寿命がどのくらいかは私にはわからないけど、「その時」がきても人生のやり直しはできないし、どれだけ嫌なことがあって、どれだけ人生のやり直しを強く望んでも、人生をやり直すことは決してできないよ……」
「俺は……この後どこへ行くんだ?最後の人生やり直しか?それとも、さっきまでいた世界、なのか?」
「それは私にもわからない。ただ、やり直し前に限りなく近い世界に巻き戻るのは確か。だから今までみたいに世界の崩壊とか不可解な現象とかは怒らない。ただ、それが高校時代か、中学時代か、それよりも前なのかはわからないけど」
「瑠香はどうするんだよ……瑠香との日々はどうなるんだよ。瑠香のお腹の中の子はどうなるんだよ……ッ!」
俺は、自らの口調がいつか目の前の少女を間接的に殺した時と同じものに変化しつつあることに気付きつつも、その感情の高ぶりを自らの意思で抑えることができなくなっていた。早苗は、少し物悲しそうに言った。
「……そっか。恵吾くん、瑠香ちゃんと結婚して、瑠香ちゃんとの赤ちゃんも作ったんだ。中学のあの時、私が恵吾くんのために瑠香ちゃんと仲良くなって、話すきっかけを作ってあげたの、覚えてるよね?へぇ、そっか……私が助けたおかげで、こんなに幸せになれたんだ……なんか、ちょっと、うらやましいな」
早苗の瞳から、光が徐々に失われていく。早苗は、物悲しさをさらに増してつづけた。
「でも、残念ながら、恵吾くんはそこへ戻ることはできない。もう一度、過去のあるタイミングからスタート。幸せな日々も全部リセット。それがこの事実を知った人の宿命なんだよ」
俺は今、目の前の女から、その事実を自らの意思に反して強制的に聞かされ、俺がこれまで長い時間をかけて築き上げてきた瑠香との幸せな日々を、一瞬にして破壊された。俺は、目の前の女を、いつかと同じような残酷なやり方で、殺したいと思った。しかし、次の早苗の言葉でそれは踏みとどまった。
「でもね、今までの記憶は全部残るし、これまでのやり直しみたいに突然変異的な感じで思ってたことと違うことが起こる、なんてことは決してないから、記憶を頼りに同じ道をたどっていけば、そのあとの結末は絶対に今と同じものになる。これはこの世界の「本当の真理」を全部知ってる私自身が保証する。だからどうか、これまでの人生をぶち壊しにされた、とは思わないでほしい……」
早苗は、静かに泣いていた。間接的とはいえ、自らを殺した相手を、ここまで案じ、しかも幸せを後押ししようとしてくれるその姿に、俺は、瑠香に対するものとは別の愛情が沸き起こってきた。「早苗を守りたい」と、純粋に思った。
「今、俺の目の前にいる早苗は……言ってみれば仮の姿ってことだよな……?やり直し前の世界に戻ったら早苗がいる、ってことはないのか……?」
「残念だけど、それはないよ……今の私は、すでに16年10か月4時間32分56秒以上経っていて、さっきも言った通り、もうやり直しはできない。誰のどの世界にも、私が「実体」として現れることは、もうないよ……」
「やだよ……早苗が消えてしまうなんて……早苗は、不幸のどん底にあるときも唯一掌を返さずに俺に寄り添ってくれた、ただ一人の心のよりどころなのに……俺にとって、瑠香よりずっとずっとかけがえのない、大切な人なのに、消えてしまうなんて……そんなのあんまりだよ」
「もうっ、ばかね。何告白みたいなこと言ってるの。そういうことは瑠香ちゃんに言ってあげなさい。でも、私も一つだけわがままを聞いてもらえるとしたら、恵吾くんに「好き」って言ってほしい。心の底からの言葉じゃなくていい。恵吾くんの口から、私に対する「好き」を聞きたい」
「でも……」
「でもじゃないの!たしかに実体としての私はもうすぐなくなっちゃうけど、恵吾くんが私のことを忘れない限り、「存在」としての私は永遠に残り続ける。だから、私のことを忘れないようにするためのおまじないだと思って、言って、ほしいな」
俺は意を決し、その感情が瑠香に対するものとは異なっていることを心の中で確認し、静かに早苗を抱きしめた。
「好きだよ、早苗」
早苗は一瞬ぶるっと震え、まもなく大泣きし始めた。俺の胸元に顔をうずめ、泣き叫ぶ早苗の最後の心の叫びが、俺の体を震わせる。好きだ、大好きだ、愛してる……俺は、自分でも何回言ったかわからないほど、思いつく限りの早苗に対するありったけの愛の言葉を口にした。早苗はその一言一言に激しく嗚咽を漏らし、声がガラガラになるまで泣き続けた。まもなくお互いの体が一体化しようかと感じ始めたころ、徐々に意識が遠くなり、全身の感覚が希薄になっていった。俺たちは、音も光もない暗黒の世界でふたり、眠りについた。
※この物語はフィクションです。